ももちゃんの一分間説教


1997年9月27日(日)マルコ9-38〜48



今週のKey Word:「つまずかせる者」(マルコ9-42)

 イエスの宣教旅行は立身出世の道ではなく自己を空にして「小さい人々」に仕えて行くことでした何故ならばイエスの心はいつも「小さい人々」の苦しみ悲しみ叫ぶ姿に張り裂けんばかりだったのでした彼らの人生が祝福され生き生きとなるようそれを妨げようとする「この世」と自らを空にして闘ったのでした
 そのイエスに従った私たちは「小さい人々」に仕えるのではなくむしろ彼らをつまずかせることの方が多いのではないでしょうか「この世界」は政官財民とスキャンダル続きです腐敗しきった大人の姿に子供たちは何の希望を持っているのでしょうか教会に子どもや青年が来ないと久しく嘆かれているのですがそれは教会自体が「腐敗しきったこの世界」にどっぷり漬かり浄化作用が麻痺しているからです教会が「この世界」と対決せず自己保全に汲々としている限り「小さい人々」のつまずきであり続けるのです
 世界中の人々が宗派人種年齢を超えてマザーテレサの死に嘆いたという事実は彼女の徹底した貧しい者たちへの奉仕の姿に希望を見いだし人々は彼女のように生きる人を求めているのだということなのであります
 教会の魅力はマザーが従ったイエスのように生きるそれ以外にはありません徹底した「小さい人々」との関わりの中でスキャンダルではなく希望を創り出すのです
 さあ今日出会う「小さい人々」の心に灯りを点しましょう



1997年9月21日(日)マルコ9-30〜37



今週のKey Word:「何を議論していたのか」(マルコ9-33)

 イエスにつながった私たちは「重荷を負った人々疲れた者たち」をイエスのもとに案内することに招かれていますしかしその案内を自己の功績とするときイエスとのつながりが絶たれてしまいます
 マルコ9-14〜29のところでイエスは弟子たちの子どもの病気癒し(=悪霊追放)の失敗に嘆息しました「なんと信仰のない時代なのかいつまでわたしはあなたがたと共にいられようかいつまであなたがたに我慢しなければならないのか」(同9-19)マルコ福音書ではここの場面ではじめて弟子たちが病気癒しにチャレンジしたと書かれていますので多分彼らは勇躍して取りかかったことだろうと想像に難くありません彼らは人々に己の才能を見せつける格好のチャンスとばかりに自分の持っている能力をフルに使ったことでしょう覚えている限りの呪文を悪霊に投げつけたでしょうまた多彩な技を仕掛けたでしょうしかし子どもの病気は癒されなかったのです彼らは口々におかしい変だ何がどうしたらいいのだと周りにいた律法学者たちをも巻き込んで議論はじめたのでした
 彼ら弟子たちはイエスとの宣教旅行を自己の立身出世の場として考えていたのでしたそれゆえに悪霊追放の業も己を高めるものであったのですそして「だれがいちばん偉いか」と仲間うちで争っていたのでした彼らが出世レースに夢中になっているとき彼らはぶどうの木であるイエスとのパイプが詰まり腐って、宙ぶらりんになっているのです
 その彼らにイエスは語りかけるのです「子どもを受け入れ仕える者になれ」と即ち自己の無力さ弱さ罪深さ醜さを受け入れるとき人は人の上に立てずむしろ人からの許しと憐れみに支えられて生きることを覚えるのですそして感謝をもって他者と共に生きることが出来るのです従って悪霊追放は自分を空にし神の力の働く器神のしもべとなることにおいて為されるのでありますまさに私たちはイエスの枝としてつながっているからこそイエスを通して神の力が働かられるのであります人々をイエスにガイドすることも彼につながっているからこそであります
 さあ今日病める人の友となれるよう己を空にしいっぱいイエスを栄養補給しましょう



1997年9月14日(日)ヨハネ3-13〜17



今週のKey Word:「独り子を信じる者が一人も滅びないで」(ヨハネ3-6)

 イエスにおいて神から無条件に赦され愛された私たちの生きる場は「この世」ではなく神の前でありましたそして私たちはイエスというブドウの木の枝として愛の実をつけるよう招かれています
 わたしたちの周りには苦難を背負ってひっそりと生きている人たちがいます
 先日その一人と出会いました私たちの所へ風呂や洗濯にみえるホームレスの人たちがいます度々顔を合わせますと声も自然に交わすようになり身の上話しを聞けるようになりますそのうちのある人は30歳の時スキー場でぶつけられ谷に転落し両足骨折をした治療後職を転々としたが後遺症がひどく長続きせずついに野宿するようになって7〜8年たつとの話でしたその話は私が彼がまだ40歳と若く丈夫そうに見えたので野宿生活から脱け出る気はないのかと安易に聞いた時でした私はショックでした私の軽率さと彼がその重荷を感じさずむしろ秘めて日々懸命に生きている姿にでした彼は足の後遺症は神経痛のため障害認定にならないので生活保護も得られず陸橋の下で暮らし昼間は寝て拾い屋をして食料や小遣いを得てるがせいぜい月何千円にしかならないと語っていました
 私は以前から陸橋の下で暮らしている彼を見て声をかけたいと思っていましたしかし思いがけなく誰かから聞いたのか私どもの風呂に通ってくるようになりました私たちの風呂には一回に十人位しか利用できないささやかなものですがこのような出会いを得られるため継続を願っています
 さて彼のように人知れず重荷を負って懸命に生きている人たちと繋がりを持ちいっしょに人生を考えて行くことはイエスにつなげられた者にとっての実になるのではないでしょうか「独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」(ヨハネ3-16)



1997年9月7日(日)マルコ 7-31〜37



今週のKey Word:「この方のなさったことはすべてすばらしい」(マルコ7-37)

 ユダヤ教の人々は元来出エジプトの神ヤーウェのもと互いをパートナーとして生かし合うように選ばれました(創世記2章参照)にもかかわらず彼らは神に従わず「この世界」に囚われて他者を外見で判断しひとを生かすのではなく差別し隔離していました(前回説教およびマルコ7-24〜30を参照)それはユダヤ教の創造信仰を否定する生き方でありました(神はお造りになったすべてのものを御覧になった見よそれは極めて良かった創1-31)
 一方この世にではなく神のもとに生きているイエスは他者の苦しみ悲しみを見過ごすことはできませんでしたイエスにとって人の痛みは自分の痛みでありました(マルコ1-41深く憐れんで=新共同訳腸ハラワタがちぎれる想いに駆られ=岩波版を参照)従ってイエスにとって他者を愛するとは「自分のように」愛することであります(マルコ12-31岩波版「お前はお前の隣人をお前自身 として愛するであろう」)
 私たちはイエスのようにひとを愛しましょうと言いながらも条件付きでしかひとを愛さないのであります外見や地位学歴で区別したり従順でおとなしくまじめで規則正しい信仰深く健康で日本人であったら等々と色々制限を設けていますホームレスは『なまけ者』『粗暴』『反抗的』だから援助活動なんてしなくていいという声が何故か教会から聞こえて来ますその声には「この世界」の見方しか出来ずイエスのように「もし自分がホームレスであったら」という想いが欠けています私たちは罪人であるにもかかわらず神は無条件に愛してくださったことを忘れているのであります
 イエスと出会い赦されて生き直すことの出来た私たちはイエスに倣い苦しみ嘆く人たちの想いを自分のものとして受け止め差別暴力を撤廃して行きましょうその時わたしたちの世界は「すべてすばらしい」と歌えるのであります



1997年8月31日(日)マルコ 7-1〜23



今週のKey Word:「むなしくわたしをあがめている」(マルコ7-7)

 私たちはイエスこそが「永遠の生命」を生きる方であり与える方であると導かれましたそれでは私たちが「永遠に生きる」とはどんなことを言うのでありましょうか
 「この世界」では人を評価するとき外観によって例えば身なりや教養職業でその人を判断します私たちが外形によって判断されるということはひとの目を気にすることであり他者に支配されて生きるということでありますしかしそこにおいては安心は得られませんなぜならひとの心はうつろいやすく勝手だからでありますそれにもかかわらず私たちはひとの評価を恐れて見栄えをよくしようと競って外側を飾りたてようとしますその結果ある人はローン地獄にはまりある人は挫折して精神を患うことになりますこうして「この世界」に生きる私たちは他者に生命さえもコントロールされ自己を喪失しているのであります
 ファリサイ派の人たちはイエスらより優位に立とうとユダヤ教の伝統的教えである「清浄規定」を持ち出してきてそれに従わないイエスの弟子を非難しイエスの権威を失墜させようとしましたわたしたちもひとを陥れるとき「汚い古い教養がない礼儀知らず伝統にはずれてる」などどよく外側をあげつらいます
 その彼らに対してイエスは「むなしく神をあがめている」と叱責しました
 神のもとで生きるとは赦されるはずのない無価値のこの己を神が愛したという信実に立つことでありますそしてその信実に立ったとき私は生命を他者から取り戻し自由に生きられるのでありますしかし彼らは神の前にではなくひとの前でひととの優劣を競ったのでありましたまさに支配され「むなしく」生きていたのであります
 「永遠の生命を生きる」とはひとの前ではなく神の前で心を見る神のもとを生きることであります
 さあ私たちはひとへの思いやり慈しみを育て「永遠の生命」を生きましょう



1997年8月24日(日)ヨハネ6-60〜69



今週のKey Word:「肉は何の役にも立たない

 イエスの「永遠」に生きようという招きに対しユダヤの人々は頑迷固陋に拒否し続けますなぜ彼らはイエスの言葉を受け容れないのだろうかキリスト教会も「全てを捨てて我に従え」とのイエスの呼びかけを聞き漏らしているのは何故なのだろうか
 先の大戦中日本の教会はそれを守るために国家と妥協せざるを得なかった苦渋の選択だったとよく言われることがあるまた信徒の「豊かな生活」を守るため日本の経済優先主義に教会は屈している私たちはこの教会の姿勢への次の言葉に耳を傾けるべきだ「戦争中苦労して教会を守ったという苦労話を聞くことがしばしばあった私はその弁護を信じない教会の形組織建物備品は守ったかも知れないしかしそう言う人もそれらの物を指して『これが教会だ』と言うことは恥ずかしくて出来ないはずである」※@
 それはユダヤ人も教会も「肉」即ち「この世」にしか立っていないからだ両者にとってイエスの言葉は「この世」で安心して暮らすための処世術でしかない従って「この世」での利益安泰を放棄せよとのイエスの言葉には「実にひどい話だだれがこんな話を聞いていられようか」となるのである
 私たちはキリストの体を形成していると言うがそれは「盲腸」としてではないか役に立たないけれど痛みだすと体全体が駄目になるというものなのだしかし私たちがイエスにつながっているというのは「永遠」(=神の国)に生きたいからではないかそのためにはイエスのように己を空にする他ないのだ
 神の愛と力にしか頼れるもののないイエスはしかし小さな人々への深い憐れみと友情に溢れていました私たちはものが一杯あるにもかかわらず他者には冷たいのであります
 さあ私たちが「小さき人々」の友になれるようイエスの「永遠の命の言葉」(ヨハネ6-68)に留まりましょう



1997年8月17日(日)ヨハネ6-51〜58



今週のKey Word:「このパンを食べる者は永遠に生きる」(ヨハネ6-58)

 飢えた人々はとにかく腹を充たすことが先決であり他者のことを考えることなんて出来やしませんまた充たされている人たちはひもじい思いをしたくないため今以下の生活に降りることは論外となりますこの両者にとっての生きる場は「この世」にしかありません従って彼らの生きる意味は肉体を満たすこととなりますユダヤ人は議論を始めました「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と彼らは「この世」にのみ生きているためにイエスのパン「わたしが与えるパンとは世を生かすためのわたしの肉のことである」(ヨハネ6-51)を「イエスの肉体」としか理解できなかったのであります
 目を転じて私たちの生きる場が「永遠」「神の国」「他者との共生」にあるとするならばイエスのパンは私たちがそこに生きようとするエネルギーであり目標であります何故ならばイエスこそは「永遠」に生きていましたそれゆえに「この世」を批判しこの世に捕らえられた人々の生命を回復するために己を空にすることが出来たのでありましたそしてそのイエスに出会い日々養われ愛されて従った数々の人々がいるのであります彼らの人生はこの世にありながら「永遠」(=神の国)にあったのでありました
 しかし私たちの生きる場が「永遠」にあるにはこの世での思い患いから自由でなければなりません即ち「今日の糧」の確保でありますそれが出来ないときキリスト教は「阿片」と嘲笑されるのでありますところが「永遠」に生きたイエスは自分を明け渡したつまり持っている限りのパンを人々と分かち合い互いに満腹したのであります満足している私たちが所有するものを減らすとき飢えた人々は少なくなるのであります私たちの身を軽くすればするほど貧困は減り「永遠」に生きる人が増えるのであります
 言い換えると「永遠」に生きるとは自己を惜しみなく他者に明け渡すことなのであります
 さあイエスを日毎の糧として永遠に生きましょう



1997年8月10日(日)ヨハネ6-41〜51



今週のKey Word:「わたしは天から降ってきた生きたパンである」(ヨハネ6-51)

 イエスのもとにパンを求めに来たユダヤの人々はイエスの言う「永遠の命に至る食べ物」を誤解し「永久に腹の充たされるパン」をイエスに願ったのでした私たちはパンのために働くことはイヤだしかし働かなければ食えないそれ故にユダヤ人の反応は至極当然だそのパンを手に入れればもう奴隷のように働かなくても済むからだ彼らにとってイエスは労働という人間搾取からの「解放者救い主」に見えたのであった
 ところで人がパンのために苦労するというのは貧しい人に限ってであり「富める者」にはあてはまらないのだ例えばわたしたちの世界では一方で飽食し残飯が山ほど残っている所(日本をはじめとする金持ちの国)があれば他方で飢餓栄養失調で子供たちが何万と死んで行く南の貧しい国々があるあるいは国内に限ってもダイエットが叫ばれる一方ホ−ムレスのように餓死することもある何故そのような人々に格差があるのだろうそれは「富める者」が貧しい人々を搾取収奪して富を独占しているからだ換言すれば前者がパンを独り占めして後者に分配しないためだ「この世」においては国家も個人も利己主義に生きていて自己に富を蓄えることこそ人生の意味があると思っている
 イエスは彼に日々のパンを求めにくる人々を憐れみながらパンだけの人生ではなく自己を生かす人生へと方向転換を勧めていますしかしそのためにはパンが人々に平等に公正に配らなければなりませんイエスの言葉は食に窮せず浪費している私たちに回心を呼びかけています即ち私たちに「この世のパン」ではなく「天から降って来たパン」を求めなさい「この世のパン」は自己の腹だけしかみたしません「天から降って来たパン」は「世を生かす」(ヨハネ6-51)のであり世を生かすためには己を空にして人々に差し出すつまり自分が得たパンを困窮する人々に分かつのです「わたしが与えるパンとは世を生かすためのわたしの肉にことである」(ヨハネ6-51)
 私たちのパンを困難にある人々に分かつとき飢えや貧困は解消され私たちと人々のパンだけの人生は終わり「永遠に生きる」人生となるでしょう
 さあ今日「天から降って来たパン」であるイエスに生かされて、私たち自身が「世を生かす」パンとなろうではありませんか



1997年8月3日(日)ヨハネ 6-24〜35



今週のKey Word:「朽ちる食べ物のためではなく」(ヨハネ6-27)

 イエスにより空腹を充たされた人々はイエスを追いかけてきました再びパンを食べたいからでありました
 私たちはイエスに教会に何を求めているのでしょうか私たちの人生は子供の時から競争でした成績で運動会で習い事で親の職業学歴家柄で家の大きさ家電製品で等々常に比較され優劣感を植え続けられてきました
 そして自己の所有する物の値をどんどん上げて行き果てしのない欲望の競争に巻き込まれているのでしたそのレース中私たちのある者は落伍しある者は自己喪失しある者は人を傷つけ傷つけられその不安な人生を彷徨い歩くのでしたそのような私たちにイエスは招かれるのでした「疲れた者重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい休ませてあげよう」(マタイ11-28)と私たちはイエスのもとに休みに行き慰めを得て再びレースに戻って行くのです私たちにとってイエスは「この世」人生の競争に勝ち残るための栄養ドリンクなのです私たちには失う物は何もないのです
 しかしイエスはこのような私たちに「はっきり言っておく」(ヨハネ6-26)……参照:「アーメンアーメンあなたがたに言う」(岩波版)とその思い違いを次のように指摘されます「朽ちる食べ物のためではなくいつまでもなくならない永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」ヨハネ6-27
 イエスとの出会いは私たちの人生を根本的に変えるのです人々の飢えを満たすために各自の食べ物を出し合ったときすべての人たちが満足したように人生をおのれの欲望をかなえるために生きるのではなく困窮した人々と生を喜びために自己の才能時間を分かつための人生へと転換するのです
 イエスは言います永遠の命に至る食べ物とは神の業であり神の業とはイエスを信じることである即ちイエスへの信仰とはイエスが人々のため命さへも自己を徹底的に明け渡した(自己を空しくした)その生き方を神が良しとされたことを信じイエスの有り様に生きようとすることなのです
 さあ私たちは競争に倦み疲れることはもうよそうではありませんかそれよりも人々、特に困難にある人たちが喜ぶことに疲れようではありませんか



1997年7月27日(日)ヨハネ 6-1〜15



今週のKey Word:「どこでパンを買えばよいだろうか」(ヨハネ 6-5)

 今日私たちのもとには北朝鮮の深刻な食糧危機が映し出されソマリアやアフリカからの飢餓が伝えられてきますまたホームレスの人々が炊き出しに長い列を作っているのを目の当たりにしますそんな時私たちは思わず一体こんな大勢の人のために「どこでパンを買えばよいだろうか」と嘆息してしまいますしかしそこには私たちには彼らに与えるための余分なものを持っていないからどうしようということであって自分の持っているものを分けようという発想がありませんここ私たちのところにはホームレスのために役立ててくださいと食料品や衣類その他が各地・各教会から贈られてきますそれらは本当に有り難く使わせていただいていますが残念ながらそれらの品々は各々賞味期限切れであり使われなくなった物であり捨てるよりはいいといった物でありますつまりそれらは余分な物なのであります提供者にとってそれがなくなっても痛くも痒くもない物でありついでに困っている人たちにして上げたという自己満足感が得られるのであります
 さて今日の福音にはイエスが子どもから貰ったパン五つと魚二匹で飢えていた五千人以上の人たちのお腹を満たしたという話が書かれています五千という数は民間伝承のならいで誇張と考えてもいいでしょうしかしその伝承の核にはイエスが僅かな物で多くの人に食べさせたという不思議な話があったにちがいありませんともかくそこには買いに行くとかよそへ行って集めるとかではなく「今ここ」にあるものすべてを出し合ってみんなに分けたら「今ここ」にいるみんなが満足したということなのであります
 世界の貧困日本のホームレスの飢えを何とかしようと言うことは大切ですが解決は無理でしょうイエスもユダヤ全土の飢えた人々を助けたのではありません彼が「今ここ」で出会った人々と生命を分けあったに過ぎないのであります
 私たち各々が今日出会う「一人」と余分なものではなく「生命」を分かち合うとき二人は「豊かな生命」をいただけるのであります
 さあ一番大事なものを神様に献げに「重荷を負った人疲れた人」のところに出掛けましょう



1997年7月20日(日)マルコ 6-30〜34



今週のKey Word:「飼い主のいない羊」(マルコ 6-34)

 イエスのもとには飢え、病み傷ついた人々が波のように後から後からひっきりなしに押し寄せて来ました彼らの貧困や差別は彼ら自身の所為ではなく社会的宗教的に押し付けられたものであります言い換えると時の為政者・宗教指導者らによって力のない人々は土地を奪われ家を追われ不浄の者(=病人)として共同体から追放されたのであります
 現代日本には指導者といわれる人はいません政治家・官僚・財界人彼らは私利私欲で動き人々の困窮・悲しみには無関心でありむしろそのような境遇へますます多くの人々を追いやろうとしていますお父さんお母さんはマイホーム・マイカーに忙しく子どもらの悲鳴に気がつこうとしません
 更に宗教家は金儲けと保身のために彼らの叫びに耳を傾けていないのであります
 イエスは押し寄せてくる群衆を前に胸の締めつけられる想いと同時に為政者への憤りが胸を焦がしたに違いありません
 私たちもホームレスの人たちが腹を空かし汚い服を身につけ寝る所を探している姿にエイズやハンセン病の故に差別を受け隔離されて生きている姿に子どもたちが暴れている姿にまず自分の生き方を省みつつ悲しみ共感し手を握ると同時に権力者へ教会へ怒りの声を挙げて行こうではありませんか



1997年7月13日(日)マルコ 6-7〜13



今週のKey Word:「何も持たず」(マルコ6-8)

 イエスの宣教活動(=悪霊追放)には何の権威を示すものはありませんでしたただ彼の教えと業に群衆は「驚く」ばかりであり(マルコ1-272-125-206-42)あるいはユダヤ教指導者たちや身内の者故郷の人々のように「気が変になっている」「悪霊の頭」の印を見たり躓くのでありました
 そのような言わば「この世」から逸脱したイエスの活動にお供する弟子たちに与えられた権威は当然何もありませんでしたただ目に見えるものといえば杖一本のほか「何も持たず」という彼らの姿でありましたこれらイエスの弟子たちへの勧告の言葉から察しできるのはイエスらの宣教活動は他者に頼る貧乏旅行だった(「放浪のラディカリズム」)※1ということであります
 現代のキリスト教会はいっぱい物を持っていますしかしそれらを有効に活用しているかといえばただただそれらを維持することに必死でありそのために宣教活動まで手を出せなくなっています私たち現代の悪霊との戦いに必要な物は質素さであります「この世界」は身を守るために物を生産し続けてきましたしかしそれが他者を支配したり環境を破壊することになりかえって身を亡ぼすことになったのであります
「人はたとえ全世界を手に入れても自分の命を失ったら何の得があろうか」(マタイ16-26)
現代の教会も同様に経済的自立を声高に叫びその為に身を悪霊に売り渡してしまいました
 それゆえにこそ今、教会はイエスに立ち返り「何も持たない」有り様にならなければなりません「この世界」に頼るものを持つと神への信頼が失くなるからであります
 イエスには何もありませんでしたイエスには神のみしか頼るものはありませでしただからこそある人々には拒絶されある人たちには神そのものとうけいれられたのであります
 さあわたしたちも身を軽くして内にイエスを充たし自分の生活の必要を満たすのではなく弱く傷つけられた人たちの友になりましょう
※1. 荒井 献『イエス・キリスト』p.110〜111講談社



1997年7月6日(日)マルコ 6-1〜6



今週のKey Word:「つまずいた」(マルコ6-3)

 イエスの宣教活動(=悪霊追放)は死に瀕した娘を立ち上がらせ12年間もの出血病に傷つき差別を受け二重三重の苦しみに打ちひしがれていた女の痛みを取り除いたように(マルコ5章)多くの「病み,疲れた人々」の生命を回復し続けました
 それにもかかわらず今日の福音ではイエスは、身内の者や母・兄弟からさえも理解されず「気の狂った」と見なされ押さえつけられそうになったように故郷の人々が彼につまずいています「この人は大工ではないか」(マルコ6-3)
 現代キリスト教会のイエスは人々をつまずかせていますそのイエスは抑圧され差別されている者らの慰めと希望にはならずむしろ彼らを無視し中流以上の生活者の安定に奉仕していますそれゆえに後者を不安にする政治的社会的問題(平和人権,環境等)には極度の警戒あるいは徹底的無関心を装いますそのような個人的精神的慰め者としてのイエスを教えるキリスト教会に多くの人々はつまずいています
 故郷の人たち身内の者たちは伝統的メシア像においてしかイエスを見ずに前記の会堂長ヤイロや12年間病んだ女の必死の叫びに応えるイエスとの出会をしなかったのでありますイエスは彼らのように生命を投げ出して己に関わって来る人々には応えられるのでありますが冷ややかに当たり障りのない程度の関係しか持たない者たちにはその程度しか応えられないのであります
 イエスとの出会いは教会にて自動的に与えられるものではなく「この方の服にでも触れればいやしていただける」(マルコ5-28)という切なる思いで飛び込んで行くとき実現するのであります
 さあ私たちも「よく生きたい」という心の叫びをもってイエスに出会いましょう


今週の一分間説教 Gospel on this week