ももちゃんの一分間説教
1997年9月27日(日)マルコ9-38〜48
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今週のKey Word:「つまずかせる者」(マルコ9-42)
イエスの宣教旅行は、立身出世の道ではなく、自己を空にして、「小さい人々」に仕えて行くことでした。何故ならば、イエスの心はいつも「小さい人々」の苦しみ、悲しみ、叫ぶ姿に張り裂けんばかりだったのでした。彼らの人生が祝福され、生き生きとなるよう、それを妨げようとする「この世」と自らを空にして闘ったのでした。
そのイエスに従った私たちは、「小さい人々」に仕えるのではなく、むしろ、彼らをつまずかせることの方が多いのではないでしょうか。「この世界」は政官財民とスキャンダル続きです。腐敗しきった大人の姿に、子供たちは何の希望を持っているのでしょうか。教会に子どもや青年が来ないと、久しく、嘆かれているのですが、それは、教会自体が「腐敗しきったこの世界」にどっぷり漬かり浄化作用が麻痺しているからです。教会が「この世界」と対決せず、自己保全に汲々としている限り、「小さい人々」のつまずきであり続けるのです。
世界中の人々が宗派、人種、年齢を超えて、マザーテレサの死に嘆いたという事実は、彼女の徹底した貧しい者たちへの奉仕の姿に希望を見いだし、人々は彼女のように生きる人を求めているのだ、ということなのであります。
教会の魅力は、マザーが従ったイエスのように生きる、それ以外にはありません。徹底した「小さい人々」との関わりの中で、スキャンダルではなく、希望を創り出すのです。
さあ、今日、出会う「小さい人々」の心に灯りを点しましょう。
1997年9月21日(日)マルコ9-30〜37
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今週のKey Word:「何を議論していたのか」(マルコ9-33)
イエスにつながった私たちは、「重荷を負った人々、疲れた者たち」をイエスのもとに案内することに招かれています。しかし、その案内を自己の功績とするときイエスとのつながりが絶たれてしまいます。
マルコ9-14〜29のところで、イエスは弟子たちの子どもの病気癒し(=悪霊追放)の失敗に嘆息しました。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」(同9-19)マルコ福音書では、ここの場面ではじめて弟子たちが、病気癒しにチャレンジしたと書かれていますので、多分、彼らは勇躍して取りかかったことだろうと想像に難くありません。彼らは、人々に己の才能を見せつける格好のチャンスとばかりに、自分の持っている能力をフルに使ったことでしょう。覚えている限りの呪文を悪霊に投げつけたでしょう。また、多彩な技を仕掛けたでしょう。しかし、子どもの病気は癒されなかったのです。彼らは、口々に、おかしい、変だ、何が、どう、したらいいのだ、と周りにいた律法学者たちをも巻き込んで議論はじめたのでした。
彼ら弟子たちは、イエスとの宣教旅行を自己の立身出世の場として考えていたのでした。それゆえに、悪霊追放の業も己を高めるものであったのです。そして、「だれがいちばん偉いか」と仲間うちで争っていたのでした。彼らが出世レースに夢中になっているとき、彼らはぶどうの木であるイエスとのパイプが詰まり腐って、宙ぶらりんになっているのです。
その彼らにイエスは語りかけるのです。「子どもを受け入れ、仕える者になれ」と。即ち、自己の無力さ、弱さ、罪深さ、醜さ、を受け入れるとき、人は人の上に立てず、むしろ、人からの許しと憐れみに支えられて生きることを覚えるのです。そして、感謝をもって他者と共に生きることが出来るのです。従って、悪霊追放は、自分を空にし神の力の働く器、神のしもべとなることにおいて為されるのであります。まさに、私たちはイエスの枝としてつながっているからこそ、イエスを通して神の力が働かられるのであります。人々をイエスにガイドすることも、彼につながっているからこそであります。
さあ、今日、病める人の友となれるよう、己を空にし、いっぱいイエスを栄養補給しましょう。
1997年9月14日(日)ヨハネ3-13〜17
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今週のKey Word:「独り子を信じる者が一人も滅びないで」(ヨハネ3-6)
イエスにおいて神から無条件に赦され、愛された私たちの生きる場は「この世」ではなく、神の前でありました。そして、私たちはイエスというブドウの木の枝として愛の実をつけるよう招かれています。
わたしたちの周りには、苦難を背負ってひっそりと生きている人たちがいます。
先日その一人と出会いました。私たちの所へ、風呂や洗濯にみえるホームレスの人たちがいます。度々、顔を合わせますと声も自然に交わすようになり身の上話しを聞けるようになります。そのうちのある人は、30歳の時スキー場でぶつけられ谷に転落し両足骨折をした。治療後、職を転々としたが、後遺症がひどく長続きせず、ついに野宿するようになって7〜8年たつとの話でした。その話は、私が彼がまだ40歳と若く丈夫そうに見えたので野宿生活から脱け出る気はないのか、と安易に聞いた時でした。私は、ショックでした。私の軽率さと、彼がその重荷を感じさず、むしろ、秘めて日々懸命に生きている姿にでした。彼は、足の後遺症は神経痛のため障害認定にならないので生活保護も得られず、陸橋の下で暮らし、昼間は寝て、夜、拾い屋をして食料や小遣いを得てるが、せいぜい、月何千円にしかならないと語っていました。
私は、以前から、陸橋の下で暮らしている彼を見て声をかけたいと思っていました。しかし、思いがけなく、誰かから聞いたのか、私どもの風呂に通ってくるようになりました。私たちの風呂には一回に十人位しか利用できないささやかなものですが、このような出会いを得られるため継続を願っています。
さて、彼のように人知れず重荷を負って懸命に生きている人たちと繋がりを持ち、いっしょに人生を考えて行くことは、イエスにつなげられた者にとっての実になるのではないでしょうか。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3-16)
1997年9月7日(日)マルコ 7-31〜37
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今週のKey Word:「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」(マルコ7-37)
ユダヤ教の人々は、元来、出エジプトの神ヤーウェのもと、互いをパートナーとして生かし合うように選ばれました。(創世記2章参照)にもかかわらず、彼らは神に従わず「この世界」に囚われて、他者を外見で判断し、ひとを生かすのではなく差別し隔離していました。(前回説教、およびマルコ7-24〜30を参照)それは、ユダヤ教の創造信仰を否定する生き方でありました。(神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。創1-31)
一方、この世にではなく神のもとに生きているイエスは他者の苦しみ悲しみを見過ごすことはできませんでした。イエスにとって人の痛みは自分の痛みでありました。(マルコ1-41、深く憐れんで=新共同訳、腸ハラワタがちぎれる想いに駆られ=岩波版を参照)従って、イエスにとって他者を愛するとは、「自分のように」愛することであります。(マルコ12-31、岩波版「お前は、お前の隣人をお前自身
として愛するであろう。」)
私たちは、イエスのようにひとを愛しましょう、と言いながらも、条件付きでしかひとを愛さないのであります。外見や地位、学歴で区別したり、従順でおとなしく、まじめで規則正しい、信仰深く健康で、日本人であったら、等々、と色々制限を設けています。ホームレスは『なまけ者』『粗暴』『反抗的』だから、援助活動なんてしなくていい、という声が何故か教会から聞こえて来ます。その声には、「この世界」の見方しか出来ず、イエスのように「もし自分がホームレスであったら」という想いが欠けています。私たちは罪人であるにもかかわらず神は無条件に愛してくださった、ことを忘れているのであります。
イエスと出会い赦されて生き直すことの出来た私たちは、イエスに倣い苦しみ嘆く人たちの想いを自分のものとして受け止め、差別暴力を撤廃して行きましょう。その時、わたしたちの世界は「すべて、すばらしい」と歌えるのであります。
1997年8月31日(日)マルコ 7-1〜23
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今週のKey Word:「むなしくわたしをあがめている。」(マルコ7-7)
私たちはイエスこそが「永遠の生命」を生きる方であり、与える方であると導かれました。それでは、私たちが「永遠に生きる」とはどんなことを言うのでありましょうか。
「この世界」では人を評価するとき、外観によって、例えば、身なりや教養、職業でその人を判断します。私たちが外形によって判断されるということは、ひとの目を気にすることであり、他者に支配されて生きるということであります。しかし、そこにおいては安心は得られません。なぜなら、ひとの心はうつろいやすく、勝手だからであります。それにもかかわらず、私たちはひとの評価を恐れて見栄えをよくしようと、競って外側を飾りたてようとします。その結果、ある人はローン地獄にはまり、ある人は挫折して精神を患うことになります。こうして、「この世界」に生きる私たちは他者に生命さえもコントロールされ、自己を喪失しているのであります。
ファリサイ派の人たちは、イエスらより優位に立とうとユダヤ教の伝統的教えである「清浄規定」を持ち出してきて、それに従わないイエスの弟子を非難しイエスの権威を失墜させようとしました。わたしたちもひとを陥れるとき、「汚い、古い、教養がない、礼儀知らず、伝統にはずれてる」などどよく外側をあげつらいます。
その彼らに対して、イエスは「むなしく神をあがめている。」と叱責しました。
神のもとで生きるとは、赦されるはずのない無価値のこの己を神が愛した、という信実に立つことであります。そして、その信実に立ったとき、私は生命を他者から取り戻し、自由に生きられるのであります。しかし、彼らは、神の前にではなく、ひとの前でひととの優劣を競ったのでありました。まさに、支配され、「むなしく」生きていたのであります。
「永遠の生命を生きる」とは、ひとの前ではなく神の前で、心を見る神のもとを生きることであります。
さあ、私たちはひとへの思いやり、慈しみを育て「永遠の生命」を生きましょう。
1997年8月24日(日)ヨハネ6-60〜69
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今週のKey Word:「肉は何の役にも立たない。」
イエスの「永遠」に生きよう、という招きに対しユダヤの人々は頑迷固陋に拒否し続けます。なぜ、彼らは、イエスの言葉を受け容れないのだろうか。キリスト教会も「全てを捨てて、我に従え。」とのイエスの呼びかけを聞き漏らしているのは、何故なのだろうか。
先の大戦中、日本の教会はそれを守るために国家と妥協せざるを得なかった、苦渋の選択だった、とよく言われることがある。今、また、信徒の「豊かな生活」を守るため日本の経済優先主義に教会は屈している。私たちは、この教会の姿勢への次の言葉に耳を傾けるべきだ。「戦争中、苦労して教会を守ったという苦労話を聞くことがしばしばあった。私はその弁護を信じない。教会の形、組織、建物、備品は守ったかも知れない、しかし、そう言う人もそれらの物を指して『これが教会だ』と言うことは恥ずかしくて出来ないはずである。」※@
それは、ユダヤ人も教会も、「肉」、即ち、「この世」にしか立っていないからだ。両者にとってイエスの言葉は「この世」で安心して暮らすための処世術でしかない。従って、「この世」での利益、安泰を放棄せよとのイエスの言葉には「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」となるのである。
私たちは、キリストの体を形成していると言うが、それは「盲腸」としてではないか。役に立たないけれど痛みだすと体全体が駄目になる、というものなのだ。しかし、私たちがイエスにつながっている、というのは、「永遠」(=神の国)に生きたいからではないか。そのためには、イエスのように己を空にする他ないのだ。
神の愛と力にしか頼れるもののないイエスは、しかし、小さな人々への深い憐れみと友情に溢れていました。私たちはものが一杯あるにもかかわらず、他者には冷たいのであります。
さあ、私たちが、「小さき人々」の友になれるようイエスの「永遠の命の言葉」(ヨハネ6-68)に留まりましょう。
1997年8月17日(日)ヨハネ6-51〜58
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今週のKey Word:「このパンを食べる者は永遠に生きる。」(ヨハネ6-58)
飢えた人々は、とにかく、今、腹を充たすことが先決であり、他者のことを考えることなんて出来やしません。また、充たされている人たちは、ひもじい思いをしたくないため、今以下の生活に降りることは論外となります。この両者にとっての生きる場は、「この世」にしかありません。従って、彼らの生きる意味は肉体を満たすこととなります。ユダヤ人は議論を始めました、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と。彼らは、「この世」にのみ生きているために、イエスのパン「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネ6-51)を「イエスの肉体」としか理解できなかったのであります。
目を転じて、私たちの生きる場が「永遠」「神の国」「他者との共生」にあるとするならば、イエスのパンは、私たちがそこに生きようとするエネルギーであり、目標であります。何故ならば、イエスこそは「永遠」に生きていました。それゆえに「この世」を批判し、この世に捕らえられた人々の生命を回復するために、己を空にすることが出来たのでありました。そして、そのイエスに出会い、日々、養われ、愛されて従った数々の人々がいるのであります。彼らの人生は、この世にありながら「永遠」(=神の国)にあったのでありました。
しかし、私たちの生きる場が「永遠」にあるには、この世での思い患いから自由でなければなりません。即ち、「今日の糧」の確保であります。それが出来ないとき、キリスト教は「阿片」と嘲笑されるのであります。ところが、「永遠」に生きたイエスは、自分を明け渡した、つまり、持っている限りのパンを人々と分かち合い、互いに、満腹したのであります。今、満足している私たちが所有するものを減らすとき、飢えた人々は少なくなるのであります。私たちの身を軽くすればするほど、貧困は減り、「永遠」に生きる人が増えるのであります。
言い換えると、「永遠」に生きるとは、自己を惜しみなく他者に明け渡すことなのであります。
さあ、イエスを日毎の糧として、永遠に生きましょう。
1997年8月10日(日)ヨハネ6-41〜51
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今週のKey Word:「わたしは、天から降ってきた生きたパンである」(ヨハネ6-51)
イエスのもとにパンを求めに来たユダヤの人々は、イエスの言う、「永遠の命に至る食べ物」を誤解し、「永久に腹の充たされるパン」をイエスに願ったのでした。私たちはパンのために働くことはイヤだ。しかし、働かなければ、食えない。それ故に、ユダヤ人の反応は、至極、当然だ。そのパンを手に入れれば、もう、奴隷のように働かなくても済むからだ。彼らにとって、イエスは労働という人間搾取からの「解放者、救い主」に見えたのであった。
ところで、人がパンのために苦労するというのは、貧しい人に限ってであり、「富める者」にはあてはまらないのだ。例えば、わたしたちの世界では、一方で、飽食し残飯が山ほど残っている所(日本をはじめとする金持ちの国)があれば、他方で、飢餓、栄養失調で子供たちが何万と死んで行く南の貧しい国々がある。あるいは、国内に限っても、ダイエットが叫ばれる一方、ホ−ムレスのように餓死することもある。何故、そのような、人々に格差があるのだろう。それは、「富める者」が貧しい人々を搾取、収奪して富を独占しているからだ。換言すれば、前者がパンを独り占めして後者に分配しないためだ。「この世」においては、国家も個人も利己主義に生きていて、自己に富を蓄えることこそ人生の意味があると思っている。
イエスは、彼に日々のパンを求めにくる人々を憐れみながら、パンだけの人生ではなく、自己を生かす人生へと方向転換を勧めています。しかし、そのためには、パンが人々に平等に公正に配らなければなりません。イエスの言葉は、食に窮せず浪費している私たちに回心を呼びかけています。即ち、私たちに「この世のパン」ではなく、「天から降って来たパン」を求めなさい、と。「この世のパン」は、自己の腹だけしかみたしません。が、「天から降って来たパン」は、「世を生かす」(ヨハネ6-51)のであり、世を生かすためには、己を空にして人々に差し出す、つまり、自分が得たパンを困窮する人々に分かつのです「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉にことである。」(ヨハネ6-51)。
私たちのパンを困難にある人々に分かつとき、飢えや貧困は解消され、私たちと人々のパンだけの人生は終わり、「永遠に生きる」人生となるでしょう。
さあ、今日、「天から降って来たパン」であるイエスに生かされて、私たち自身が「世を生かす」パンとなろうではありませんか。
1997年8月3日(日)ヨハネ 6-24〜35
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今週のKey Word:「朽ちる食べ物のためではなく」(ヨハネ6-27)
イエスにより空腹を充たされた人々は、イエスを追いかけてきました。再び、パンを食べたいからでありました。
私たちは、イエスに教会に何を求めているのでしょうか。私たちの人生は、子供の時から、競争でした。成績で、運動会で、習い事で、親の職業、学歴、家柄で、家の大きさ、家電製品で、等々、常に、比較され優劣感を植え続けられてきました。
そして、自己の所有する物の値をどんどん上げて行き、果てしのない欲望の競争に巻き込まれているのでした。そのレース中、私たちのある者は落伍し、ある者は自己喪失し、ある者は人を傷つけ傷つけられ、その不安な人生を彷徨い歩くのでした。そのような私たちにイエスは招かれるのでした、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11-28)と。私たちは、イエスのもとに休みに行き、慰めを得て再びレースに戻って行くのです。私たちにとって、イエスは「この世」人生の競争に勝ち残るための栄養ドリンクなのです。私たちには失う物は何もないのです。
しかし、イエスはこのような私たちに「はっきり言っておく。」(ヨハネ6-26)……参照:「アーメン、アーメン、あなたがたに言う。」(岩波版)、とその思い違いを次のように指摘されます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」ヨハネ6-27
イエスとの出会いは私たちの人生を根本的に変えるのです。人々の飢えを満たすために、各自の食べ物を出し合ったとき、すべての人たちが満足したように、人生をおのれの欲望をかなえるために生きるのではなく、困窮した人々と生を喜びために自己の才能、力、時間を分かつための人生へと転換するのです。
イエスは言います。永遠の命に至る食べ物とは、神の業であり、神の業とはイエスを信じることである、と。即ち、イエスへの信仰とは、イエスが人々のため命さへも自己を徹底的に明け渡した(自己を空しくした)、その生き方を神が良しとされたことを信じ、イエスの有り様に生きようとすることなのです。
さあ、私たちは競争に倦み疲れることはもうよそうではありませんか。それよりも、人々、特に、困難にある人たちが喜ぶことに、疲れようではありませんか。
1997年7月27日(日)ヨハネ 6-1〜15
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今週のKey Word:「どこでパンを買えばよいだろうか」(ヨハネ 6-5)
今日、私たちのもとには、北朝鮮の深刻な食糧危機が映し出され、ソマリアやアフリカからの飢餓が伝えられてきます。また、ホームレスの人々が炊き出しに長い列を作っているのを目の当たりにします。そんな時、私たちは思わず、一体こんな大勢の人のために「どこでパンを買えばよいだろうか」と嘆息してしまいます。しかし、そこには、私たちには、彼らに与えるための余分なものを持っていないから、どうしよう、ということであって、自分の持っているものを分けよう、という発想がありません。ここ、私たちのところには、ホームレスのために役立ててくださいと食料品や衣類その他が各地・各教会から贈られてきます。それらは、本当に有り難く使わせていただいていますが、残念ながら、それらの品々は、各々、賞味期限切れであり、使われなくなった物であり、捨てるよりはいいといった物であります。つまり、それらは余分な物なのであります。提供者にとって、それがなくなっても痛くも痒くもない物であり、ついでに、困っている人たちにして上げた、という自己満足感が得られるのであります。
さて、今日の福音には、イエスが子どもから貰ったパン五つと魚二匹で飢えていた五千人以上の人たちのお腹を満たした、という話が書かれています。五千という数は、民間伝承のならいで誇張と考えてもいいでしょう。しかし、その伝承の核にはイエスが僅かな物で多くの人に食べさせた、という不思議な話があったにちがいありません。ともかく、そこには、買いに行くとかよそへ行って集めるとかではなく、「今、ここ」にあるものすべてを出し合って、みんなに分けたら、「今、ここ」にいるみんなが満足した、ということなのであります。
世界の貧困、日本のホームレスの飢えを何とかしよう、と言うことは大切ですが、解決は無理でしょう。イエスもユダヤ全土の飢えた人々を助けたのではありません。彼が、「今、ここ」で出会った人々と生命を分けあったに過ぎないのであります。
私たち各々が今日出会う「一人」と、余分なものではなく「生命」を分かち合うとき二人は「豊かな生命」をいただけるのであります。
さあ、一番大事なものを神様に献げに「重荷を負った人、疲れた人」のところに出掛けましょう。
1997年7月20日(日)マルコ 6-30〜34
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今週のKey Word:「飼い主のいない羊」(マルコ 6-34)
イエスのもとには、飢え、病み、傷ついた人々が波のように後から後からひっきりなしに押し寄せて来ました。彼らの貧困や差別は、彼ら自身の所為ではなく社会的宗教的に押し付けられたものであります。言い換えると、時の為政者・宗教指導者らによって、力のない人々は、土地を奪われ、家を追われ、不浄の者(=病人)として共同体から追放されたのであります。
現代日本には、指導者といわれる人はいません。政治家・官僚・財界人、彼らは私利私欲で動き、人々の困窮・悲しみには無関心であり、むしろ、そのような境遇へますます多くの人々を追いやろうとしています。お父さん、お母さんはマイホーム・マイカーに忙しく、子どもらの悲鳴に気がつこうとしません。
更に、宗教家は金儲けと保身のために彼らの叫びに耳を傾けていないのであります。
イエスは押し寄せてくる群衆を前に胸の締めつけられる想いと同時に為政者への憤りが胸を焦がしたに違いありません。
私たちも、ホームレスの人たちが腹を空かし、汚い服を身につけ、寝る所を探している姿に、エイズやハンセン病の故に差別を受け隔離されて生きている姿に、子どもたちが暴れている姿に、まず、自分の生き方を省みつつ、悲しみ、共感し、手を握ると同時に権力者へ、教会へ怒りの声を挙げて行こうではありませんか。
1997年7月13日(日)マルコ 6-7〜13
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今週のKey Word:「何も持たず」(マルコ6-8)
イエスの宣教活動(=悪霊追放)には、何の権威を示すものはありませんでした。ただ、彼の教えと業に、群衆は「驚く」ばかりであり(マルコ1-27、2-12、5-20、6-42)、あるいは、ユダヤ教指導者たちや、身内の者、故郷の人々のように「気が変になっている」「悪霊の頭」の印を見たり、躓くのでありました。
そのような、言わば、「この世」から逸脱したイエスの活動にお供する弟子たちに与えられた権威は、当然、何もありませんでした。ただ、目に見えるものといえば、杖一本のほか「何も持たず」という彼らの姿でありました。これらイエスの弟子たちへの勧告の言葉から察しできるのは、イエスらの宣教活動は他者に頼る貧乏旅行だった(「放浪のラディカリズム」)※1、ということであります。
現代のキリスト教会は、いっぱい、物を持っています。しかし、それらを有効に活用しているかといえば、ただただ、それらを維持することに必死であり、そのために宣教活動まで手を出せなくなっています。私たち現代の悪霊との戦いに必要な物は質素さであります。「この世界」は、身を守るために物を生産し続けてきました。しかし、それが、他者を支配したり、環境を破壊することになり、かえって、身を亡ぼすことになったのであります。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マタイ16-26)
現代の教会も同様に、経済的自立を声高に叫び、その為に、身を悪霊に売り渡してしまいました。
それゆえにこそ、今、教会はイエスに立ち返り、「何も持たない」有り様にならなければなりません。「この世界」に頼るものを持つと、神への信頼が失くなるからであります。
イエスには何もありませんでした。イエスには神のみしか頼るものはありませでした。だからこそ、ある人々には拒絶され、ある人たちには神そのものとうけいれられたのであります。
さあ、わたしたちも身を軽くして、内にイエスを充たし、自分の生活の必要を満たすのではなく、弱く傷つけられた人たちの友になりましょう。
※1. 荒井 献『イエス・キリスト』p.110〜111講談社
1997年7月6日(日)マルコ 6-1〜6
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今週のKey Word:「つまずいた。」(マルコ6-3)
イエスの宣教活動(=悪霊追放)は、死に瀕した娘を立ち上がらせ、12年間もの出血病に傷つき、差別を受け、二重三重の苦しみに打ちひしがれていた女の痛みを取り除いたように(マルコ5章)、多くの「病み,疲れた人々」の生命を回復し続けました。
それにもかかわらず、今日の福音では、イエスは、身内の者や母・兄弟からさえも理解されず、「気の狂った」と見なされ、押さえつけられそうになったように、故郷の人々が彼につまずいています。「この人は、大工ではないか。」(マルコ6-3)
現代キリスト教会のイエスは、人々をつまずかせています。そのイエスは抑圧され差別されている者らの慰めと希望にはならず、むしろ、彼らを無視し、中流以上の生活者の安定に奉仕しています。それゆえに、後者を不安にする政治的社会的問題(平和、人権,環境、等)には極度の警戒、あるいは、徹底的無関心を装います。そのような、個人的精神的慰め者としてのイエスを教えるキリスト教会に多くの人々はつまずいています。
故郷の人たち、身内の者たちは、伝統的メシア像においてしかイエスを見ずに、前記の会堂長ヤイロや、12年間病んだ女の必死の叫びに応えるイエスとの出会をしなかったのであります。イエスは、彼らのように生命を投げ出して己に関わって来る人々には応えられるのでありますが、冷ややかに、当たり障りのない程度の関係しか持たない者たちには、その程度しか応えられないのであります。
イエスとの出会いは、教会にて自動的に与えられるものではなく、「この方の服にでも触れればいやしていただける」(マルコ5-28)という切なる思いで飛び込んで行くとき実現するのであります。
さあ、私たちも、「よく生きたい。」という心の叫びをもってイエスに出会いましょう。
今週の一分間説教 Gospel on this week
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