ももちゃんの一分間説教



今週の一句
父は投げ さくらの園の 娘打ち

―もとゐ―


 2023年4月2日(日)
 受難の主日

 マタイによる福音書27章11-54節

27,11 [そのとき、]イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。
27,12 祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。
27,13 するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。
27,14 それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
27,15 ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。
27,16 そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。
27,17 ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」
27,18 人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
27,19 一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」
27,20 しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。
27,21 そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。
27,22  ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。 
27,23  ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。 
27,24 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」 
27,25  民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」 
27,26  そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。 
27,27  それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。 
27,28  そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、 
27,29  茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。 
27,30  また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。 
27,31  このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。 
27,32  兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。 
27,33  そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、 
27,34  苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。 
27,35  彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、 
27,36  そこに座って見張りをしていた。 
27,37  イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。 
27,38  折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。 
27,39  そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、 
27,40  言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 
27,41  同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。 
27,42  「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 
27,43  神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」 
27,44  一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。 
27,45  さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 
27,46  三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 
27,47  そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。 
27,48  そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 
27,49  ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。 
27,50  しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 
27,51  そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 
27,52  墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。 
27,53  そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。 
27,54  百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 

 イエスの受難物語は四福音書すべてに書かれている。それぞれが「イエスの死」とは、そしてその生涯とは何だったのかを描いている。

 今日はマタイによるイエスのエルサレム入城だ。マタイはイエスを「(旧約)聖書の完成者」(マタイ5・17)とする。古代イスラエル人が神の救いの歴史に呼ばれたが背いたため、新たにイエスが任命され完成しキリスト教徒が引き継いだ、と言う。キリスト教徒を導いたイエスを新しいモーセとする。モーセの律法に代わる生き方の方向指針をイエスが山上の説教で弟子たちに与えたように、等。それらは聖書、即ち神の計画の成就と見なす。受難物語もその意図で書かれている。

 今日の入城場面のイエスがロバに乗って入城したのも同じ(ゼカリヤの預言の成就)。それはイエスが柔和で謙遜な「王」であること。さらに、それは「ローマ皇帝」に対抗する入城だと言われる。エルサレムには過ぎ越し祭を祝うために通常の人口の4万人が国内外からの巡礼者を迎え20万人に膨れ上がると言う。祭りが奴隷からの解放を記念するため熱狂的な愛国ムードの再燃、ローマ帝国圧政への抗議が高揚し暴動がいつ起きても不思議でない一発触発の緊迫した状況となる。

 ローマは治安取り締まりのため祭りの期間中軍隊を総動員する。世界最強の軍隊が威風堂々と駐屯地からエルサレムに行進するのだった。さながら、現代の独裁政権の力の誇示同様最新鋭の武器を見せびらかすように。ローマ皇帝の圧倒的偉大さを見せつけるのだ。

 大祭司たちのイエス捕縛は暴動を口実にローマがユダヤ人追放をしないためのスケープゴートなのだ。(ヨハネ福音書)それとは対照的に、イエスは神のメシアとして貧弱な子ロバに乗って入城する。これは、神のもたらす非暴力抵抗による「救い」「平和」と軍事力によるローマ皇帝のもたらすもののどちらをあなたは選択するのですか、との問いを読者へ投げかけているのだ。受難物語全体が「神」か「王かの」問いなのではないだろうか。
今週の一句
出迎えは 真白き叢 雪柳

―もとゐ―


 2020年4月6日(木)
 主の晩餐 聖木曜日

 ヨハネによる福音書13章1-15節

13,1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
13,2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
13,3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
13,4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13,5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
13,6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
13,7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
13,8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
13,9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
13,10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
13,11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
13,12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
13,13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
13,14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
13,15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

 ヨハネでは特に受難を「父の栄光化」と読んでいて逆説的な印象だ。その意味は何か。「人の子が栄光化される時が来た」12・23、「父よ、私をこの時から救い給え。しかしこの故に私はこの時まで来たのである。父よ、あなたの御名栄光化してくださいますように」「私はすでに栄光化した。また栄光化するであろう」12・27、28、

 「今や人の子は栄光化され、神も人の子において栄光化された。もしも神がかれにおいて栄光化されたのであれば、神もまたみずからにおいて彼を栄光化するであろう」13・31、32

 それらの文脈から『父の栄光化』とはイエスの十字架刑死であろう。さらに、この世の裁き、とも言う。「今や此の世の裁きである。今や此の世の支配者が外に放り出される。私はまた地から(上へと)上げられるならば、すべての者を私のもとに引き寄せるであろう」12・31、32 そして、十字架に上げられたイエスを信じる者には永遠の命(いつも明るく活き活きと生きる力)が与えられる、と。(「人の子もまた高く上げられねばならぬ。彼を信じる者がみな永遠の生命を持つためである。」)3・14、15。残酷極まる十字架刑で殺されたイエスを「神の子」と信じることが日々を前向きに生きられるとはこれまた逆説的言葉ではないか。

 今日の言わば最後の晩餐の箇所では次のようにイエスの生涯とは何であったかを記す。イエスは弟子のフィリッポスやアンドレアスに言った、「もしも麦の粒が地に落ちて死ななければ、それだけにとどまる。死ねば多くの実をもたらす。自分の生命を愛する者はそれを失い、自分の生命を此の世で憎む者は、それを永遠の生命へと至るまで保つことになろう。」12・24,25。つまり、イエスはその生涯を人々が活き活きと前向きに生きられるよう神に捧げたのであり、晩餐の席で弟子の足を洗ったことに象徴されるよう、重荷を負った人たちの荷を背負われたのだ。ここに「神の栄光化」がある。それは奇跡を行使して人々の重荷を軽々と負うのではなく、弟子たちから裏切られ、権力から抹殺されてまでも無残な無力な奴隷となって弟子たち、人々を大切にする徹底した姿ではないか。

 それは、エルサレム入城と同じく、イエスのその姿を「神の子」と呼ぶのか、イエスを処刑した「ローマ皇帝」を頂点とするこの世の支配者を最高の価値とするのかの問いかけとなっている。

 しかし、敵である自分をそれ程まで大切にしてくださった神に出会った人は、何があっても活き活きと前向きに生きる挑戦を続けられるのではないのだろうか。弟子たちにイエスは招く、「私があなた方になしたように、またあなた方もなすためである。」これが、最後の晩餐であり、今日のミサを祝う意味なのではないか。 
今週の一句
春の空 白線一筋 ヒコーキ雲

―もとゐ―


 2023年4月7日(金)
 聖金曜日 主の受難

 ヨハネによる福音書18章1節-19章42節

18,1 〔夕食のあと、〕イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。
18,2 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。
18,3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。
18,4 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。
18,5 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
18,6 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
18,7 そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。
18,8 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」
18,9 それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。
18,10 シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。
18,11 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
18,12 そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、
18,13 まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。
18,14 一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
18,15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、
18,16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。
18,17 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。
18,18 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
18,19 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。
18,20 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。
18,21 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
18,22 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。
18,23 イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」
18,24 アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
18.25 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。
18,26 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
18,27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
18,28 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。
18,29 そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。
18,30 彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。
18,31 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。
18,32 それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。
18,33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
18,34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
18,35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
18,36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
18,37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
18,38 ピラトは言った。「真理とは何か。」
ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。
18,39 ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」
18,40 すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。
19,1 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。
19.2 兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、
19,3 そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。
19,4 ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」
19,5 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。
19,6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」
19,7 ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
19,8 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、
19,9 再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。
19,10 そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」
19,11 イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
19,12 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
19,13 ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。
19,14 それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、
19,15 彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。
19,16 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。
こうして、彼らはイエスを引き取った。
19,17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
19,18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
19,19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
19,20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
19,21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。
19,22 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
19,23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
19,24 そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
19,25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
19,26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
19,27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
19,28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
19,29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
19,30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
19,31 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。
19,32 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。
19,33 イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。
19,34 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
19,35 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
19,36 これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。
19,37 また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
19,38 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。
19,39 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。
19,40 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。
19,41 イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。
19,42 その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。

 ヨハネによるイエスの裁判と処刑の場面だ。他の共観福音書と比較すれば、後者の受け身のイエス、特に神への何故、懐疑、見捨てられた思いが色濃く出ているのに対し、前者の立ち向かう積極的なイエス、成就したと神への確信が見られる。

 それはヨハネのキリスト論、先在の神の子キリスト受肉から十字架に上げられるまでの地上における活動(神の人間への愛を知らしめる=栄光化)経、天、父のもとへの帰還までの道程を全うしたことに基づくのであろう。それ故、捕縛にあたっても、大祭司、ピラトの前での裁判においても物怖じせずに堂々と立ち向かっている。むしろ、全く相手にしない威厳をイエスはもっている。

 つまり、人間の権威、栄光(ピラトの言う「真理」)は神の前では何の価値、力を持たないことをイエスは知っているからだ。エルサレム入城のローマ軍団ではなく子ロバに乗ったイエスにこそ神の栄光が示されることなのだ。裁判、十字架刑のイエスもまたその象徴なのだ。
今週の一句
お目当ての たこ焼き玉せん 花見かな

―もとゐ―


 2023年4月9日(木)
 復活徹夜祭

 マタイによる福音書28章1-10節

28,1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
28,2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
28,3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
28,4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28,5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
28,6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
28,7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
28,8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28,9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
28,10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

 キリストの復活とは弟子たち、その後の原始キリスト教団がメシアと信じたイエスが何故、十字架刑と凄惨な死を遂げたのかを考えて考え抜いて得た一つの答えであった。

 マタイにとっては、イエスは旧約聖書の完成者、即ち、いけにえ(律法の形式的遵守)ではなく憐れみ(安息日は人のためにある、遊女や徴税人との交流、最も小さい人々への奉仕、等)を望まれる神にイエスは生涯を持って応えられた方であった。しかし、この世は利己的な社会宗教の秩序を守るためイエスを極刑に処した。

 マタイはそのイエスの「死」を旧約の完成と見で、神話的描写で描いた。神殿の幕が切っておろされ、大地震の生起とは、つまり、律法による神と人間を隔てる秩序、それを正当化する宗教の無効宣言であり、この世の既成秩序、価値観に従う生き方が終わりを告げ、神の憐れみに生きる、まさに、「霊において貧しい」生の開始を告げる「死」であると。 
今週の一句
清明や 花鳥賑わう 山の里

―もとゐ―


 2023年4月16日(日)
 復活節第2主日

 ヨハネによる福音書20章19-31節

20,19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20,20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20,21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20,22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20,23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
20,24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20,25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20,26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20,27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20,28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20,29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
20,30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
20,31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 ヨハネによればイエスは十字架刑死で神の栄光(人間への愛)を表わしたと言う。

 イエスは出会ったサマリアの井戸での女性、生前から目の見えない男性、マルタ・マリアの姉妹たちに神の愛を伝え、その重荷、病い、悲しみを倒れていた彼・彼女たちの目を開き起き上がらせた。

 しかし、神の業を行うイエスを理解できず、この世の価値観に縛られていた弟子たちはイエスを裏切り、その罪悪感に圧し潰され死に体であった。

 イエスは前記の人たちと同様彼らを見捨てて置かれなかった。イエスが彼らの前に現れ、「平和あれ」と祝福し「聖霊を受けよ」と言ったのだ。

 つまり、イエスは弟子たちを受け入れ、生まれ変われと呼びかけたのだ。同じく、疑うトマにもとことん受け入れ身を任せたのだ。イエスの甦りとは裏切った者、疑う者がそれでも受け入れてくださったイエスの想起によって再び立ち上がることなのだ。

 パウロは言う「一切は、神から生じる。神はキリストによって我々を神ご自身と和解せしめ、我々に和解の務めを与えた。神はキリストにおいて世をみずからと和解せしめた、ということなのだ。彼らの過ちを数え上げることをせず、我々の中に和解の言葉を置き給うたのである。」(Uコリント5・18-19) ※聖書引用は田川健三訳による。


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