ももちゃんの一分間説教



今週の一句
移ろいや  身にしむ闇夜 虫の声

―もとゐ―


 2022年9月18日(日)
 年間第25主日

 ルカによる福音書16章1節-13節

16,1 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。
16,2 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』
16,3 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。
16,4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』
16,5 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。
16,6 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』
16,7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』
16,8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
16,9 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
16,10 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
16,11 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。
16,12 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。
16,13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

 今日の例え話しでもイエスの立場をはっきり示している。この世の常識では不正は罰せられて当然だ。しかし、誰が不正をしたかよって結果は違う。執事の不正は噂、あるいは、同僚の彼を落としいれる虚言だったかもしれない。主人はそれを執事に確かめることなく一方的に執事を解雇しようとした。これは「不正」ではないか。

 また、主人は債務者に世の常で法外の利子で貸し付けているのではないか。であれば主人は二重の「不正」をしている。けれど、この世は主人の「不正」を不問とし、執事のそれを罰する。イエスはその強いものが得し、弱い人々を更に痛めつける社会構造を批判すると共に、神の国では弱い立場の人たちをこそ大切にしているのだと、執事を褒める。イエスは前回の喩え(『放蕩の末息子』)でもこの世の常識では測れない神の思いを示しているから今回も同様だろう。

 しかし、この執事のしたことは「弱者」が生き残るために必死にしたのだと考慮するならばこの世で「不正」とされることでも賢明なことだ。ある意味ではこの世に生きる人はパンを盗んでも食いつなぐずる賢さをもっているのだ。しかし、そのずる賢さはこの世の競争社会、弱肉強食を生き抜くためだ。という事は、イエスが競争社会に生き抜ける力を褒めたのであろうか。

 イエス運動はこの世の敗者と見られる人たち、律法を守らないとされる「罪人」、「遊女、町税人」、サマリア人などの外国人、先の喩えの『放蕩し、落ちぶれた弟』を神が大切にされ、平等にされることを実現することであった。(「畑で穀物を刈り入れるとき、オリーブの実、ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。参照:申命記24・19-22」)

 言い換えれば、競走社会における強者が弱者を抑圧して生き残る在り方から弱い立場の人たちを尊重し、助け合って生き残る方向への転換だ。であれば、執事は自分さえ助かればではなく、負債のある人たちと生き残る方へ知恵を働かせたことにイエスは感心したのではないだろうか。
今週の一句
台風の 行方わからぬ この世かな

―もとゐ―


 2022年9月25日(日)
 年間第26主日

 ルカによる福音書16章19節-31節

16,19 〔そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。〕「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16,20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、
16,21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
16,22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16,23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
16,24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
16,25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
16,26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
16,27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。
16,28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16,29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
16,30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
16,31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

 イエスの関心は「小さくされた人たち」が大切にされ幸いな人生を送ることであった。そのために、彼らを抑圧し搾取する支配者、富裕層たちに悔い改め、回心を待ち望んでいた。

 しかし、後者はイエスの声を聞かなかった。前者との間には生前のラザロと金持ちのように深淵が横たわっているのだ。神はその不正義を見過ごされる方ではない。なぜなら、神は奴隷であった古代イスラエル人を救われ、「乳と蜜の流れる豊かな土地」を与えられたではないか、故に、古代イスラエル人はその神の業を想起、感謝し、毎年の初物を神に献げ、貧しい人たちと食事を分かち合ったのであった。(「…力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。」あなたはそれから、あなたの神、主の前に供え、あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。申命記26,8-11)

 更に、神は彼らに呼びかけている。(この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる、この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。申命記15・11)

 つまり、神の思いはラザロと金持ちの間の深淵を埋めることなのだ。しかし、金持ちは旧約から伝わる神の声を一切聞かなかったのだ。イエスは言う、「富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。ルカ6・24」金持ちは「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。同12・48b」、神の呼び掛けに背いたのであった。


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