ももちゃんの一分間説教



今週の一句
花散りて 輝き俄か ハナミズキ

―もとゐ―


 2022年5月1日(日)
 復活節第3主日

 ルカによる福音書24章35-48節

24,35 〔そのとき、エルサレムに戻った二人の弟子は、〕道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
24,36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
24.37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
24,38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
24,39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
24,40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
24,41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
24,42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
24,43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
24,44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
24,45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
24,46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
24,47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
24,48 あなたがたはこれらのことの証人となる。

 イエスに出会った人々は生まれ変わる。イエスの息を吹き入れられ、生まれ変わった彼らの新しい人生はどこへ向かうのか。

 彼らの漁師の生業は変わらない、しかし、イエスの声に従う漁となり、イエスと同じく羊飼いのいない迷える羊たちを大切にする漁、生業となるのであった。
今週の一句
雨洗う 万緑の海 揺れるかな

―もとゐ―


 2022年5月8日(日)
 復活節第4主日

 ヨハネによる福音書10章27節-30節

10,27 〔そのとき、イエスは言われた。〕「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
10,28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
10,29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。
10,30 わたしと父とは一つである。」

 先週の信従する(私の羊たちは私の声を聞く。…そして羊たちは私に従って来る。田川訳10・27)生まれ変わりをイエスはご自分の使命だと宣言している。永遠の生命へと生まれ変わった者は(私は彼らに永遠の生命を与える。同10・28)他者を新しい命(永遠の生命)へ誘う。
今週の一句
雨上がり 微笑みかけり 春爛漫

 2022年5月15日(日)
 復活節第5主日

 ヨハネによる福音書13章31節-33a節、34節-35節

13,31 さて、ユダが〔晩餐の広間から〕出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
13,32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
13,33a 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。
13,34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13,35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

 イエスに従って生まれ変わった人とは、旧約聖書のモーセに導かれエジプトの奴隷から解放されて自由への道、荒れ野の旅を歩み出した人たちに例えられる。王の前でこの世的立身出世主義の競争社会を生き抜く奴隷的あり方から、イエスのように神の前で弱さを認識し自由な共生的生き方、しかし同時に十字架の道(ヨハ福では人の子、神の栄光化と呼ぶ。12・28、13・31、他)へ。

 旧約の民は荒れ野の旅を進むに当たって、モーセから告げられた神の指針、掟、律法に従うことを約束した。同じように、イエスの信従者たちはイエスから新しい掟を与えられ約束するのであった。(新しい戒命をあなたがたに与える。…その点において、(すなわち)もしもあなた方が互いにおいて愛を持つならば、あなた方は私の弟子である、ということをすべての人が知るであろう。田川訳13・35) 
今週の一句
卯の花や 雨に洗われ 匂い立つ

 2022年5月22日(日)
 復活節第6主日

 ヨハネによる福音書17章20節-26節

17,20 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
17,21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
17,22 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
17,23 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
17,24 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。
17,25 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。 
17,26  わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」 

 17章は『告別説教』と言われる。イエスが十字架刑死を前に父である神が残された弟子たちへのこの世の迫害から聖霊を派遣して守ってくださると弟子たちを励ます別れの言葉だ。まさにイエスの十字架刑死直後暗黒に落とされた弟子たちを立ち上がらせたイエスの顕現と息を吹きかけたところを指しているようだ。

 ヨハ福のイエスを神から派遣された子と信じ、「永遠の生命」を与えられるとの信仰は当然、神殿祭儀と律法遵守による救いを信じる当時のユダヤ教からは異端宣告、追放、迫害されるのは当然であった。

 イエスの弟子となることは苦難の道を歩むこと。それでも、そのユダヤ教から小さくさせられ、差別と搾取を受け、困難な生に落とされた女性、病者、障害者たちを大切にし立ち上がらせたイエスの生き方こそ、神の前で、神に喜ばれる生だと目が開かれたのだ。

 弟子たちを前へと歩き続けさせるのはモーセが海を鎮め、人々を渡らせたようにイエスの臨在、息吹きによるのだとヨハ福は告げている。 
今週の一句
風薫り 思い当れば 蜜柑なり

―もとゐ―


 2022年5月29日(日)
 主の昇天

 ルカによる福音書24章46節-53節

24,46 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた聖書には〕「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
24,47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
24,48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
24,49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
24,50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24,51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
24,52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
24,53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

 ルカによればイエスの福音宣教(悔い改めによる罪のゆるし。『私が来たのは義人を招くためではなく、罪人を悔い改めへと招くために来たのだ。』ルカ5・32田川訳。)はガリラヤから始まりエルサレム、ローマへと続く旅であった。(『彼の名によって罪の赦しにいたる悔い改めが、エルサレムからはじめて、すべての民族へと宣べ伝えられるべきである。』ルカ24・47田川訳)

 イエスは悔い改めない支配者たちによりエルサレムで最期を遂げたが、それも神の計画であり弟子たちの世界宣教派遣も神の計画であるとルカは言う。(このように書かれてある。キリストは受難し、死人の中から三日目に復活しルカ24・46)

 ルカによれば「悔い改め」とはキリスト教徒になること(上村静『旧約聖書と新約聖書』n283)。後にペテロが「悔い改め」を人々に次のように説明している。「ペテロは彼らに、『悔い改めなさい』と言った。そしてあなた方それぞれが、イエス・キリストの名において、あなた方の罪の赦しへと至る洗礼をお受けなさい。そして聖霊の賜物を受け取るがよろしい。使徒行伝2・38田川訳」

 こうして天に上げられ神の計画の下、イエスは自分と同様弟子たちが人々を悔い改めに導き、キリスト教徒にする宣教へと派遣するのであった。


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