ももちゃんの一分間説教



今週の一句
身にしむや 窓越しの春 ポカポカと

―もとゐ―


 2022年4月3日(日)
 四旬節第5主日

 ヨハネによる福音書8章1節-11節

8,1 〔そのとき、〕イエスはオリーブ山へ行かれた。
8,2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
8,3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8,4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
8,5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
8,6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
8,7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8,8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
8,9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
8,10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
8,11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 ヨハネ福音書によれば、神はイエスと出会った者を苦難から「永遠の生命」(いつも明るく元気に活きる力 山浦玄嗣訳)へ立ち上がらせる、と言う。例 サマリアの井戸の女性、ベートザダの池に38年間横たわっていた病人、生まれつき目が見えなく物乞いで生きている者、弟ラザロを亡くしたマルタ、マリアの姉妹、等。他方、イエスとの出会いにもかかわらず、目耳を閉ざして真理に目覚めず立ち上がれなかったユダヤ教指導者たちもいた。

 今日の箇所は、元来はなく、4,5世紀にヨハネ本文に付け足された話だが(田川健三)、むしろ、ルカ福音書の「放蕩息子」の譬えに似ている。つまり、譬え同様、前者への身を挺して寄り添ったイエスと後者への批判と回心を暗示するイエスの物語となっている。

 父系性男性中心主義のユダヤにあって、男性は女性への抑圧搾取の上に生きている。男は自分の正当化のために女性弱者を悪者にし切り捨てるのが常だ。今回でも姦淫の罪で捕らえられた女性だけを裁き、相手の男性を不問にしている。しかも、女性からは一切弁明も聞かないところに明らかだ。

 イエスは悲しかった人間を共生、助け合う者として創造された神の思いからどれほど背いているのか。イエスはまた自らも他者を裁く資格のないことを思っただろう。力ある男性はより弱い女性を守るように神は命を吹き込まれたのではないか、ならば、イエスはその女性に寄り添うしかできなかった。しかし、そのイエスは男性中心主義に生きる者たちにとっては邪魔者となり処刑されることを知りながら。
今週の一句
見渡せば 霞む船影 春の海

―もとゐ―


 2022年4月10日(日)
 受難の主日(エルサレム入城の福音)

 ルカによる福音書19章28節-40節

19,28 〔そのとき、〕イエスは先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。
19,29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、
19,30 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。
19,31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
19,32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。
19,33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。
19,34 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。
19,35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。
19,36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
19,37 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
19,38 「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」
19,39 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。
19,40 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

 重税と律法の重荷に喘いでいたガリラヤの人々に、「福音」、神の共にいることを伝えて来たイエスはエルサレムへ上った。と言うのはこれまでの前二回の福音が語ってきたように、ガリラヤの苦難の根本原因であるユダヤ社会の支配者・権力者の神への背きをあらため、社会構造を変えない限り、その苦難は終わらないからであった。

 しかしながら、イエスの貧しい人々を大切にする運動を社会秩序を乱すものと敵意をもって見られているのは当然であった。イエスは気づき命の危険を感じるようになっていた。イエスは覚悟してエルサレムへ入城したのであった。しかも、エルサレム入城には空手で貧しい人々といっしょであった。

 対照的なローマの戦車、重装騎馬軍団を伴う圧倒的力を誇示するのではなかった。「荒れ野の試み」にあった『力、軍事力、経済力』ではなく、「ろば」の象徴する『柔和、謙遜』がイエスの変革の方法であった。
今週の一句
黄水仙 スイング楽しき 聖歌隊

―もとゐ―


 2022年4月14日(木)
 聖木曜日 主の晩餐

 ヨハネによる福音書13章1節-15節

13,1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
13,2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
13,3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
13,4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13,5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
13,6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
13,7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
13,8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
13,9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
13,10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
13,11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
13,12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
13,13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
13,14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
13,15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

 ヨハネ福音書ではイエスを神の人への愛の証しとして遣わされ、人はイエスが神の言葉を現す者であると信じ、従うならば人は「永遠の命」を与えられる、と言う。(参照3・16)

 今日の最後の晩餐の記事でもそれを意味している。イエスは十字架に上げられる、即ち、天、父の下へ帰る前、残された弟子たちを孤児にしないため記念の宴を設けた。出エジプトの過ぎ越しの祭りのように、食事の度にイエスのこと、イエスのことば、働きを思い出すように。イエスのしたこととは、弱い立場の人、裏切り過ちを犯す弟子たちを受け入れ、再び、新しい生へと立ち上がらせること、であった。

 それは、会食を共にし、汚れた足を洗うことが表している。今日の教会のミサの意味がここにある。
今週の一句
何ごとか ひときわ白し 雪柳

―もとゐ―


 2022年4月15日(金)
 聖金曜日 主の受難

 ヨハネによる福音書18章1節-19章42節

18,1 〔夕食のあと、〕イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。
18,2 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。
18,3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。
18,4 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。
18,5 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
18,6 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
18,7 そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。
18,8 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」
18,9 それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。
18,10 シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。
18,11 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
18,12 そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、
18,13 まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。
18,14 一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
18,15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、
18,16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。
18,17 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。
18,18 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
18,19 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。
18,20 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。
18,21 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
18,22 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。
18,23 イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」
18,24 アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
18.25 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。
18,26 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
18,27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
18,28 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。
18,29 そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。
18,30 彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。
18,31 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。
18,32 それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。
18,33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
18,34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
18,35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
18,36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
18,37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
18,38 ピラトは言った。「真理とは何か。」
ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。
18,39 ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」
18,40 すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。
19,1 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。
19.2 兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、
19,3 そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。
19,4 ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」
19,5 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。
19,6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」
19,7 ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
19,8 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、
19,9 再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。
19,10 そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」
19,11 イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
19,12 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
19,13 ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。
19,14 それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、
19,15 彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。
19,16 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。
こうして、彼らはイエスを引き取った。
19,17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
19,18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
19,19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
19,20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
19,21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。
19,22 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
19,23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
19,24 そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
19,25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
19,26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
19,27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
19,28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
19,29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
19,30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
19,31 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。
19,32 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。
19,33 イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。
19,34 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
19,35 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
19,36 これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。
19,37 また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
19,38 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。
19,39 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。
19,40 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。
19,41 イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。
19,42 その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。

 ヨハネ福音書ではイエスの十字架刑死を「栄光」と言う。

 従って、その受難物語では他の共観福音書における悲劇性が見られず、むしろ、イエスのこの世(イエスを神の子と認めない)に対する勝利として描かれている。例えば、イエスの捕縛(それで彼が彼らに「私だ」と言った時に、彼らは後ろに下がり、地に倒れた。田川訳ヨハネ福18・5)、大祭司(彼にイエスが答えた、「もしも私が悪しく語ったというのなら、何が悪いのか証言してみろ。だが、良く語ったのなら、どうして私を打つのだ」。同18・23)やピラト(「私はこのために生まれ、そしてこのために世に来た。すなわち真理について証言するためである。」同18・37)の尋問でのイエス、十字架上でのイエス(それでイエスは酢をとると、言った、「なし遂げられた」。そして頭を傾け、霊を引き渡した。同19・30)、等に見られる。

 それ程ヨハネ福にはイエスが神から遣わされた神の子であるとの強い確信が見られる。

 では、ヨハネ福はイエスに何を見出したのか。ユダヤ教指導者たちは神の言葉(隣人を自分と同じように大切にしなさい。)に忠実であると言いながら、立場の弱い人たちを大切にせず、共に生きようとはしなかった。むしろ、裁き共同体から排除していたのだった。

 それに対し、イエスは病者や遊女たちに近づき、立ち上がらせ、結果、刑死を受けたのであった。ここにヨハネ福はイエスが神の人への愛、真理、神の栄光をこの世に示した(成し遂げられた)ことを認めたのだ。
今週の一句
啓蟄や 出るに出られぬ 人間世界

―もとゐ―


 2022年4月17日(日)
 復活の主日 日中のミサ

 ヨハネによる福音書20章1-9節

20,1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20,2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
20,3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
20,4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
20,,5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
20,6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20,7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
20,8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
20,9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

 今朝の福音書の箇所ではイエスが復活したとは記されていないから不十分。ただ、空の墓を描写しマリアと弟子たちの恐れと困惑を報告しているだけ。

 イエスに出会い大切にされ、新しい命を生き始めた入城人々、特に女性たちは、イエスが十字架刑に処せられたことを見聞きし、一気に光を失い、再び、死の暗闇に落とされた。誰もが自分たちを差別し拒絶する社会にあって唯一見方になったイエスの遺体にせめてすがろうとして墓に急いだのだった。

 しかし、それさえもなくなったことに神を呪うしかなかった。神はどこに行ったのか。愛は、正義はこの世界にはないのか、と。夜明け前、墓と墓穴を塞ぐ岩、遺体の紛失は彼女たちの心を象徴しているかのようだ。しかし、一切を奪われたマリア、弟子たち、そして、私たちは立上がれるのだろうか。
今週の一句
復活祭 十字架の墓標 累々と

―もとゐ―


 2022年4月24日(日)
 復活節第2主日

 ヨハネによる福音書20章19-31節

20,19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20,20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20,21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20,22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20,23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
20,24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20,25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20,26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20,27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20,28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20,29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
20,30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
20,31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 葬られたイエスを一目見たいと弟子の一人マグダラのマリアは朝早く墓へ急いだ。他方、筆頭弟子と言われたペテロはじめ男の弟子たちはみな怯え隠れていた。

 マリアはイエスとの出会いにより新しい命を生き始めた。それまで、男性中心社会の制度、習慣、宗教により虐げられた不平等の人生から立ち上がったのだ。彼女は神の前で、大切にされた人間として、人を大切にする人生を始めたのだった。

 ところが、男たちはイエスと旅を共にしたにもかかわらず、相変わらず、この世の前で立身出世、自己中心に生きたのであった。イエスの死は彼らには敗北、絶望でしかなかった。

 しかし、やがて、彼らはこの世から否定されたイエスこそ神の言葉、真理、道、命だと生命をかけて公言するようになった。つまり、彼らもまたイエスの命,息を吹き込まれ新しく生まれ変わった、創造された、立ち上がった、甦ったのだ。


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