今週の一句 |
セキレイや 冬の停車場 差す光り
―もとゐ―
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2022年3月6日(日)
四旬節第1主日
ルカによる福音書4章1節-13節
4,1 |
〔そのとき、〕イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 |
4,2 |
四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 |
4,3 |
そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」 |
4,4 |
イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 |
4,5 |
更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 |
4,6 |
そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 |
4,7 |
だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 |
4,8 |
イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」 |
4,9 |
そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 |
4,10 |
というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』 |
4,11 |
また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」 |
4,12 |
イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 |
4,13 |
悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。 |
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『荒野での試み』と言われる箇所。それは、福音書ではイエスの「神の統治」運動の方針を語る序曲となっている。何故、イエスは「神の子」であるにもかかわらず、みじめな十字架刑で最期を遂げるその運動をしたのか、と問う教会の「キリスト論」から書かれた物語と言える。
その要旨は、イエスの働きの指針は、1,石をパンに変えない。2,試みるものとの取引をしない。つまり、神以外に主権を譲渡さない。3,神の力に頼らない。と言う。これらの中で、一番の基本は2の神(ヤハウェと言う名)以外に従わないことだ。1,3はそれから導かれる。言い換えれば、イエスは人間に都合の良い神(バアルと言う名)、この世的ご利益宗教を捨てたのだ。
イエスはバアル神ではなくヤハウェ神に人間として、あるがままガリラヤの人々と関わられた。ヤハウェ神は一人一人の力を付与するのではなく、引き出すのだ。
ドイツの神学者D・ボンヘッファーは言う、「神の前で、神と共に、神なしに生きる」と。そもそも、イエスが伝えようとした神の国=神の統治とは人が神の言葉、意志を最終権威とし従うこと。(例えば、神のことば「人を大切にしなさい」を人が生きること。申命記参照)、だから、人の欲求に適うこと(石をパンに変えろ)ではないのだ。モーセ、エリヤ、エレミヤがヤハウェ神に従ったのは自己の名誉、地位を求めたのではなく、神に従ったからだ。それでも、理不尽な結末となったのと同じだ。試みるもの、人間はそれをせせら笑っている。 |
今週の一句 |
空青く 河を渡れば 春の雪
―もとゐ―
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2022年3月13日(日)
四旬節第2主日
ルカによる福音書9章28b節-36節
9,28b |
〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。 |
9,29 |
祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。 |
9,30 |
見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。 |
9,31 |
二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。 |
9,32 |
ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。 |
9,33 |
その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。 |
9,34 |
ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。 |
9,35 |
すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。 |
9,36 |
その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。 |
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イエスの『変容物語』と言われる所、先週の『試み』と同様、史実ではなく、「キリスト論」で、福音書における『間奏曲』を成しているだろう。
と言うのは、ルカ福では前半のガリラヤでの病気癒しというガリラヤの人々を熱狂させたイエス運動を描き、後半はエルサレムでの受難に向かうところを描いているその折り返しだ。一息入れて、福音書の初めと同様、あらためて、イエスは何者か「神の子」を読者に提示し、イエスと共にエルサレムでの受難の道を歩こうと呼びかけている。
さて、前回同様、ここでもイエス運動を受難の道と言う。直前で、イエスが弟子たちにガリラヤで見聞き体験して来た自分、イエスを何者だと思っているか尋ねる箇所がある。当然、弟子たちは自分たちの立身出世を夢見ただろう。イエスはその上で、自分について来たいなら、自分の命を捨てろ、十字架を負え、全世界を手に入れる者は自分の命を失う、と弟子たちに呼びかけるのだ。
それ故にこそ、それを言うイエスは一体何者なのだと言う疑問が弟子たちに起こるだろう。これらは、前記試みるものの誘いと同じ内容であり、民の不平不満や王アハブの迫害を拒否し、神ヤハウェのみに従った旧約聖書の偉大なモーセやエリヤを思い起こさせ、彼らを引き継いだイエスこそ「神の子」だからついて行くよう弟子たちに告げている。 |
今週の一句 |
見上げれば 白梅揺れる 青き空
―もとゐ―
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2022年3月20日(日)
四旬節第3主日
ルカによる福音書13章1節-9節
13,1 |
ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 |
13,2 |
イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 |
13,3 |
決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 |
13,4 |
また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 |
13,5 |
決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」 |
13,6 |
そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 |
13,7 |
そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 |
13,8 |
園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 |
13,9 |
そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」 |
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イエスは言う、誰でも災難や不幸に遭った人たちを神の裁きだと非難できる人はいない。
つまり、お前たちはぶどう畑に植えられたイチジクの木であるが実をつけないので切り倒されることを誰も止められないのと同じだ。
イエスの言う「お前たち」は前後の文脈から「ファリサイ派、律法学者」を指していると分かる。彼らは確かに自他共に律法の研究には熱心、守ることには厳格だ、ガリラヤの小さくされた人たちを自己責任と非難し、排除し搾取していたのだ。神の前に自分をおくことを忘れている。
しかし、神との契約を守る、つまり、神のことばに従うとは、神が示される人間観、誰をも大切にする神の思いにどう応えて生きるかだ。ぶどう畑で「もう己利他」の実をつけるイチジクの木になることを神は願っているのだとイエスはファリサイ派を批判した。 |
今週の一句 |
かじかむや 手袋越しの 大寒波
―もとゐ―
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2022年3月27日(日)
四旬節第4主日
ルカによる福音書15章1節-3節、11節-32節
15,1 |
〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 |
15,2 |
すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 |
15,3 |
そこで、イエスは次のたとえを話された。 |
15,11 |
「ある人に息子が二人いた。 |
15,12 |
弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 |
15,13 |
何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 |
15,14 |
何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 |
15,15 |
それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 |
15,16 |
彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 |
15,17 |
そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 |
15,18 |
ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 |
15,19 |
もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 |
15,20 |
そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 |
15,21 |
息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 |
15,22 |
しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 |
15,23 |
それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 |
15,24 |
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。 |
15,25 |
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 |
15,26 |
そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 |
15,27 |
僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 |
15,28 |
兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 |
15,29 |
しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 |
15,30 |
ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 |
15,31 |
すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 |
15,32 |
だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」 |
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ルカ福音書によれば、イエスは自分の使命を「私は罪人を悔い改めへと招くために来た。」(ルカ5・32田川訳)と述べている。この場合の「罪人」とは当時のユダヤ教指導者たちからそう呼ばれ断罪されてきた「律法を守りたくても守れない」下層の貧しい人、病人のことではなく、先週のぶどう畑に植えられて実をつけなかった傲慢な指導者たちのことだろう。何故なら、イエスは「貧しい人たちに福音、神の受け入れる年を宣べ伝えるために神が遣わされた」と宣言しているからだ。
今日の箇所でも、二人の息子は指導者を指している。両者とも父である神の思いに背いて、与えられた恵みを弟は自己の欲望のままに使い切った。世間的優等生の兄はもっと恵みを父から与えられるよう謹厳実直に生きた、その分傲慢になり他者への思いやりには欠けていた。つまり、二人は父の声を聴かず、自我の声に従ってたのだ。二人はイエス当時のユダヤ教指導者を象徴している。父は二人が戻ってくるのを待った。実がつくまで待つように懇願した園丁のように。
神にとって人が神の子として、神の言葉に従って生き幸いと命を得ることを願うからだ。父のもとへ戻るにはには「気づき」が必要だ、弟は気づいた、が、兄はまだだった。父は首を長くして待ち続けている。 |
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