ももちゃんの一分間説教



今週の一句
秋の蚊や 睡眠妨害 三度かな

―もとゐ―


 2021年11月7日(日)
 年間第32主日

 マルコによる福音書12章38節-44節

12,38 〔そのとき、〕イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、
12,39 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、
12,40 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
12,41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
12,42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
12,43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
12,44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 ガリラヤ中を旅するイエスの目線には、いつも、故郷に置いてきた年老いた母とまだ若い弟妹のことが気がかりであった。大黒柱の自分がいなくなり貧困のなかで無事に過ごしているだろうかと心を痛めていたのではなかっただろうか。それゆえに、目の前で出会った苦難の人たちについ手を伸ばしたのだった。

 貧しい人たちが助け合い人生が幸いになるように働きたかったのだ。余計、貧しい人たちを見捨てるばかりか差別搾取する、貧しい寡婦の全財産を神殿への献金の名で奪い取る宗教指導者たちへの批判は厳しくなった。宗教指導者とは自己の出世を求めるのではなく貧しい人たちに仕えることではないかとイエスは語気を強めるのであった。 
今週の一句
散髪中 眠りに落ちて つるべ落とし

―もとゐ―


 2021年11月14日(日)
 年間第33主日

 マルコによる福音書13章24節-32節

13,24 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、
13,25 星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
13,26 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
13,27 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。
13,28 いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
13,29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
13,30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
13,31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。
13,32 その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」

 イエスの時代には終末、神の裁きの到来を今か今かと待ち望んでいた。

 ユダヤではローマ帝国の支配下、自治政府である大祭司をトップとする衆議会とユダ王国のヘロデ王は自己保全のためローマの怒りをかわないように国内の安定だけに苦心していた。そのため、貧しい人たちの苦難は顧みられず、一層窮地に立たされるだけであった。ローマ帝国、苦難からの解放の神への叫びは日増しに高くなっていた。

 重荷を下ろそうとするイエスの登場は特にガリラヤの人々には神からのメシア、救い主の到来として大歓迎された。しかし、期待はイエスの十字架刑死によって潰えたかのようだったが、イエスに従った弟子たちはイエスがキリストとして神が起き上がらせた、復活し、天に帰り、やがて、終末の裁きに戻って来るとの信仰を見出し、終末が迫っているとの希望をもつエルサレム教団を作った。
今週の一句

―もとゐ―


 2021年11月21日(日)
 王であるキリスト

 ヨハネによる福音書18章33節b-37節

18,33 〔そのとき、ピラトはイエスに、〕「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
18,34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
18,35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
18,36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
18,37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

 教会はナザレのイエスをキリストとし、三つの職制『王・祭司・預言者』と呼び、教会の信者が倣い、従うよう呼び掛ける。

 では、ピラトとイエスの対話から『王』とは何かを見てみよう。歴史上ピラトは出世欲に駆られていたと言う。だから、ピラトがイエスに「汝は王ではないか」と問うたのにイエスは「私の王国は此の世のものではない。」との答えにはピラトとイエスの『王』観の違いが見られる。

 ピラトにとってローマ皇帝に取り入ってより高い地位、富を得るため地位の低い人たちの上に力を振るうことであった。

 イエスにとっては「第一者(王)であろうと思うなら万人の最後の者、万人に仕える者となれ。参照:マルコ9・35」であった。「神の国が子どものためにあるように、子どもを大事にする。参照:マルコ10・14」ことであった。教会や信徒もまた子ども(小さくさせられた人たち)に仕えるよう呼ばれている。※聖書は田川訳から
今週の一句
秋雨や 衣替え飛ぶ 寒暖差

―もとゐ―


 2021年11月28日(日)
 待降節第1主日

 ルカによる福音書21章25節-28節、34節-36節

21,25 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
21,26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。
21,27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
21,28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
21,34 放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。
21,35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。
21,36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

 待降節はキリストの降誕と再臨を待望する期間だから採用されている。

 黙示文学は抵抗文学と言われ、キリストを信じる群れに現状の余りにも悲惨な状況(迫害)に対し、このままで終わらせないぞと明かりを持たせる意図で書かれた。イエス運動はまたそれだった。

 イエスはガリラヤの苦難にある人たちが、飢えや病気でばたばた倒れて行くのを座視できなかった。神は彼彼女らをほおっておくはずはない必ず助けられると運動を開始したのだった。このイエス運動はガリラヤの人々には生きる力を与え、支配者や富裕者には回心を迫るのであった。(参照 マタイ25・31‐46)終末の審判を先取りするかのようであった。それ故に、後者はイエスを弾圧するのであった。待降節中、イエスは貧しい人たちのところへ来られ、仲間になった。イエスの居られるところを目を覚まして見よ、出かけようとの呼びかけではない



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