ももちゃんの一分間説教



今週の一句
白萩や 垣根乗り越え 道装い

―もとゐ―



 2018年10月3日(日)
 年間第27主日

 マルコによる福音書10章2節-16節

10,2 〔そのとき、〕ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
10,3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
10,4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
10,5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。
10,6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
10,7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
10,8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
10,9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
10,10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。
10,11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。
10,12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
10,13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
10,14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
10,15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
10,16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

 先週の「信仰ある小さき者を躓かせるな」や、イエスの弟子たち(後のキリスト教徒)には「最後の者になれ」、「子どもを受け入れよ」と「弱くされた人たち」に仕えるように招かれたいる。従って、これらの箇所は教会の信者に向けた司牧問題を取り上げている。

 今日は、「婚姻」問題だ。信者は日々の生活をイエスの生き様を倣うと約束した。イエスは上述のように、「弱くされた人たち」に寄り添った。当時の結婚は父系性社会にあって、嫁ぐ先、夫の家系の血を絶やさないためであった。そのため、妻となる女性は子を産むことだけの道具でそれ以外には人権がなかった。夫の意のままに離婚させられた。(参照:申命記24)ファリサイ派は男性優位の律法からイエスにその正当化を尋ねたのであった。

 上記のイエスから見れば「小さくされた人々」を配慮しない人間、男性優位の律法を看過できない。故、イエスは人の言い伝えではなく、神の心(例レビ記19・14 耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。神を畏れなさい。わたしは主である。 )へ立ち返るよう勧めたのだ。
今週の一句
目にさやか 紅き彼岸花 青き空

―もとゐ―


 2015年10月10日(日)
 年間第28主日

 マルコによる福音書10章17節-27節

10,17 〔そのとき、〕イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
10,18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
10,19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
10,20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
10,21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
10,22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
10,23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
10.24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
10.25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
10.26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
10,27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

 前回同様、司牧上の問題、すなわち、裕福な信者にとってイエスに倣うとはどのように生きることなのか。豊かなガリラヤ、無償の神の恵みを受けて育ったイエスにはガリラヤの人たちが何故貧しく、飢え、病気で裸であったかの理由、原因が見えていた。ユダヤ教指導者たちが言うように「罪を犯した」つまり、自己責任ではなく、政治・経済・宗教の社会構造からもたらされるのであった。すなわち、エルサレムの大土地所有者の搾取、差別が原因であり、ガリラヤの貧困をなくすには、社会構造の変換、富の公平な分配、金持ちの回心が必要であった。出エジプト記16章の「マナの奇跡」における『今日一日の必要な分だけ集めなさい』の神の言葉を裕福な人たちこそが守るようにイエスは願ったのだ。まさに、それが『神を全力で愛し、人を同じく大事にする』ことに他ならない。優等生的にお題目を口で唱えることではない、と。
今週の一句
名月や 未明の空へ 拝むかな

―もとゐ―


 2018年10月17日(日)
 年間第29主日

 マルコによる福音書10章35節-45節

10,35 〔そのとき、〕ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
10,36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
10,37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
10,38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
10,39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
10,40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
10,41 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
10,42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
10,43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
10,44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
10,45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 イエスはエルサレムに近づくにつれ弟子たちに何度も十字架の苦難が待ち受けていることを告げた。しかし、弟子たちはその意味を分からず、相変わらず自己の出世しか頭になかったと、今日の箇所でも繰り返し告げている。と言うことは、マルコ福音書にとって、イエスの教えから離反してエルサレム教会を組織していたペテロや他の弟子たちを批判している言える。(参照:大貫隆『マルコによる福音書T』リーフバイブルコンメンタリシリーズ)

 さて、イエスはガリラヤの貧しい人々の苦難が支配者、富裕層(王、大祭司、大土地所有者)を絶対とする階級社会による下層民の奴隷化にあると見ていた。王を頂点とするヒエラルキー社会を人々を奴隷にする社会であると批判し、それに対抗するのは神を最終権威として神の前では万人平等の社会を理想とするのは神のことば、すなわち、旧約聖書であった。その理想を学んだイエスはガリラヤの苦難にある人々が人間の尊厳をもって生きられるよう活動を始めた。

 それは上から押し付け施すのではなく「最後の者となり、仕える」ことによってであった。弟子たちの思い、階級社会の価値観からは忌み嫌い唾棄すべきものであった。
今週の一句
青き空 燃える大地の 曼殊沙華

―もとゐ―


 2021年10月24日(日)
 年間第30主日

 マルコによる福音書10章46節-52節

10,46 イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。
10,47 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。
10,48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
10,49 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
10,50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
10,51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
10,52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

 今回の盲人バルティマイオスへの癒しは「万人の最後の者、万人に仕えよ」の具体例を示している。

 イエスは弟子たちを十字架への道、上記の言葉に招かれた。エリコの町へイエスについて行った弟子たちが目にしたものは、道端で物乞いしているバルティマイオスの叫び声であった。イエスの再三の招きにもかかわらず、弟子たちには聞こえず、ただただ、うるさい邪魔な声でしかなかった。まさに、弟子たちにはバルティマイオスを関わる価値のない万人の最後の者、最底辺の落伍者としか見なかったのだ。

 他方、イエスには神の大事にされる、自分と同じ「神の子」であり、その彼が何重の苦しみの中で生きたい、幸いになりたいと叫んでいる仲間であった。バルティマイオスの「生まれ変わりたい」の叫びにイエスは応えた。それは、奇跡でなく、バルティマイオス自身の立ち上がりに声を掛けただけであった。『あなたの信頼があなたを救った』。イエスの「仕えよ」とは、イエス※1同様、富も力もない「最後の者」には施しや奇跡を行えない。ただ、当事者の声を受け止め、背中を押し、見守り、じれったいことしかできなくても良いとイエスは励ましているのではないか。
今週の一句
目にさやか 道端飾る 彼岸花

―もとゐ―


 2021年10月31日(日)
 年間第31主日

 マルコによる福音書12章28節b-34節

12,28 〔そのとき、〕一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
12,29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
12,30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
12,31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
12,32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
12,33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
12,34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

 イエスは遂にガリラヤの人々を重荷で圧迫しているエルサレムへ入城した。

 まず、その牙城であるエルサレム神殿(信仰の名による貧しい人たちへの搾取と差別)の不正を告発し、ますます、支配層から怒りを買った。その後、神殿内でファリサイ派、律法学者たちと律法についての論争が続く。

 後者はイエスに神殿への不正告発をした権威がどこから来ているのか問い質した。そして、イエスの行動の根幹である律法観を尋ねた。つまり、彼らはイエスが律法の基本を何と考えているかを聞き出し、その正当性を問おうとした。

 それに対し、イエスはユダヤ教徒なら子供でも知っている基本を答えて誰も反証できなくした。即ち、「神への愛と、隣人への愛」であった。しかし、イエスの視点はユダヤ教指導者層への痛烈な批判があった。それは、前章(マルコ10・17‐22ある金持ちとの対話)にあるように、「小さくされた人たち」への関わりこそが神への愛であること。イエスは律法の基本を守っていると誇らしく答えた金持ちに「一つ欠けている。持ち物を売り貧しい人々に与えなさい」金持ちが神より大事に守っている富への執着からの回心(参照:出エジプトのマナ)を勧めたのであった。



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