今週の一句 |
節分や コロナ祓うや 冷え厳し
―もとゐ―
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2021年2月7日(日) 年間第5主日 マルコによる福音書1章29節-39節
1,29 | 〔そのとき、イエスは〕会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。 | 1,30 | シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 | 1,31 | イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。 | 1,32 | 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。 | 1,33 | 町中の人が、戸口に集まった。 | 1,34 | イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。 | 1,35 | 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。 | 1,36 | シモンとその仲間はイエスの後を追い、 | 1,37 | 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。 | 1,38 | イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 | 1,39 | そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。 |
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イエスの「神の統治=神の国」運動は安息日の会堂から開始された。そのイエスの言葉と働きを目の当たりにしたガリラヤの農民たちは「権威ある新しい教え」だと感嘆し、神を賛美したと言う。
今日の箇所はペテロの姑の熱病癒しの奇跡を付加したマルコのイエス運動をまとめた句だと言われる。つまり、うわさを聞いてガリラヤの各地から癒しを求めて続々とイエスのもとに人々が訪ねたとまとめている。
マルコ福音書にはガリラヤの貧しい農民たちの間に広まったイエス伝承を集められている。そのイエス伝承は病人癒しの奇跡物語が主だ。と言うことは、ガリラヤの貧しい農民たちにとっての第一の願いは病気からの快復、即ち、人には期待できない絶望下、神の決定的介入を渇望するしかなかった。そこに、イエスが登場し、病人との命がけの関わりに、待ちに待った神の働き、まさに、奇跡(神の働きの徴)を見出したのだ。
彼らにとって、それまでのユダヤ教の指導者、祭司や律法の教師たちから「汚れた者」と呼ばれ、排斥され見捨てられた者にとってイエスの関わりは力に溢れ恵みにみちた神の近さを現すものだったに違いないのだ。それゆえ、そのイエスの姿は立ち所に広まって行った。 |
今週の一句 |
梅が枝 揺れて賑わう 小鳥かな
―もとゐ―
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2021年2月14日(日) 年間第6主日 マルコによる福音書1章40節-45節
1,40 | 〔そのとき、〕重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。 | 1,41 | イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、 | 1,42 | たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。 | 1,43 | イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、 | 1,44 | 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」 | 1,45 | しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。 |
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今日の物語から、病気に苦しむガリラヤの貧しい人たちが何故、イエスの働きを「権威ある新しい教えだ」と言って神を賛美したかを教えられる。重い皮膚病を患っている人がイエスのもとへ来て、清めてくれ(=治してくれ)と頼みに来て、イエスが応えて清くした物語だ。ここには、二つのタブー破りがある。一つは重い皮膚病の人であり、二つ目はイエスのタブー破りだ。前者は人前に近づいてはならないこと、等(レビ13・45,46)、後者は重い皮膚病に罹った人を清まったと診断するのは祭司の権限であることだ(レビ13章)。
と言うことは、律法の法を破ってまでも癒されたいとの必死の願いに、当然、イエスは祭司の権限を侵すことの代償を十分承知していたにもかかわらず、応えたのであった。
しかし、イエスは法を破ることに平気ではなかった。むしろ、人として恐怖に慄いたと思われる。重い皮膚病に罹った人の叫びにイエスは「深く憐れんだ」と新共同訳に訳されているギ語「スプラングニゾマイ」を田川訳では「怒り」となっている。後者は43節の「厳しく注意して」(新共同訳)、「きつく??りとばし」(田川訳)につじつまが合うのではないか。ここに、イエスの心中、重い皮膚病に罹った者に神がお前を大切にしてるぞと宣言したいと思う反面、それによって、身に危険が及ぶことへの葛藤、不甲斐なさへの腹立たしさを感じる。
「憐み」とは生易しいことではないのだ。だから、イエスは事の発覚を恐れて「誰にも何も言うな」と病者を口止めしたのではないか。そこまでするこのイエスの姿に、この病者同様虐げられ人権を奪われたガリラヤの貧しい人たちはメシヤを見出し、こんなことはかって見たこともない、「権威ある新しい教えだ」と神を賛美したのだ。 |
今週の一句 |
白梅や 控えめにして 香高し
―もとゐ―
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2021年2月21日(日) 四旬節第1主日 マルコによる福音書1章12節-15節
1,12 | 〔そのとき、〕“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 | 1,13 | イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。 | 1,14 | ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 | 1,15 | 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 |
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先週まで、福音書は私たち読む者をイエスの旅に同行させたが、教会の典礼暦が四旬節に入ったため、福音書はそのテーマ毎に読まれるようになった。
以前にも言ったように、マルコ1・1−15は福音書の所謂、序曲をなし、これから始まるイエスの生涯をまとめている。特に、12−13説ではイエスの生涯をいわゆる旧約の荒野の旅(出エ)と理想生活シャローム(イザヤ11章)に譬えている。出エジプトの荒れ野の旅とは奴隷状態から自律への旅を象徴すると言われている。
イエスはガリラヤの苦難する人たちが解放され人として大切にされる、自由に生きられるよう働かれた。その過程は、まず、この世の支配者(悪霊)から脱出(イエスの受洗)し、真の権威、即ち、神に従って十字架まで生きて(聖霊に導かれる)、ガリラヤの人々を神の思いである平和、シャロームの憩いに導いた過程だ、と福音記者マルコは記している。四旬節の過ごし方を示唆しているとも言える。 |
今週の一句 |
山里は 白酒めされ ひな祭り
―もとゐ―
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2021年2月28日(日) 四旬節第2主日 マルコによる福音書9章2節-10節
9,2 | 〔そのとき、〕イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 | 9,3 | 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 | 9,4 | エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 | 9,5 | ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 | 9,6 | ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 | 9,7 | すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 | 9,8 | 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。 | 9,9 | 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。 | 9,10 | 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。 |
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今日の箇所でも、弟子たち、つまり、キリスト者に、あなたがたがついて行くイエスは誰かを教える。前回では、イエスが神の子として神から、荒れ野(サタンから試みられるこの世界)を楽園(野獣とともにいる、6 おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、8 乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。(イザヤ11・6−8)イザヤの言う神のシャローム)になるように遣わされた、と紹介された。
今回、シナイ山でモーセを仲介にして神がことば、生き方の指針をヘブライの民に与え(出エ19・3−8、モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。『ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。…今、もしわたしの声を聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。…これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。』
モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。民は皆、一斉に答えて、『わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います』と言った。24・15−18モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆ていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼び掛けられた。主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。)。
荒れ野の旅を導いた故事に倣い、イエスこそ神のことばであり、聞き従うならば、この世の荒野を進み、ヘブライの民が約束の地を得たように、楽園、神のシャロームに入れるのだ、さらに、神への背きを背負ったモーセや告発した預言者エリヤのように、この世から排斥され十字架の道を歩むとも紹介している。 |
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