今週の一句 |
コロナ禍や 新年の問いかけ 新生活
―もとゐ―
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2021年1月1日(土)
神の母聖マリア
ルカによる福音書2章16節-21節
2,16 |
〔そのとき、羊飼いたちは〕そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 |
2,17 |
その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 |
2,18 |
聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 |
2,19 |
しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 |
2,20 |
羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。 |
2,21 |
八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。 |
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ルカ福音書のイエス誕生物語は、神の救いへ読む者を招かれる。羊飼いらは天使のお告げ「今日、あなたがたのために救い主が生まれた。飼い葉桶に眠る幼児を見るであろう。」を受けた。そして、招きに応え、羊飼いたちは見に行き、証人になり神の栄光、救いを賛美した。
羊飼いたちは、自分らと同じ野宿している名もなき旅人の生まれた嬰児(つまり、エルサレム城外での十字架刑死したイエス)に「救い主」の徴を見て、神は私たちのような社会から排除された者と共にいる方、私たちを見捨てられない方であることを悟ったのだ。しかし、羊飼いのように神の証人になることはハッピーエンドではなく、世間からは拒否される道、イエスの受難への道となることを示している。 |
今週の一句 |
朝の陽や 丸々浴びて 冬至かな
―もとゐ―
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2021年1月3日(日)
主の公現
マタイによる福音書2章1節-12節
2,1 |
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 |
2,2 |
言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 |
2,3 |
これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 |
2,4 |
王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 |
2,5 |
彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。 |
2,6 |
『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 |
2,7 |
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 |
2,8 |
そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。 |
2,9 |
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 |
2,10 |
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 |
2,11 |
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 |
2,12 |
ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。 |
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マタイ福音書におけるイエス誕生物語には、キリストがダビデ王の子孫から出るとのユダヤ教思想からその出生が描かれている。(マタイ1・1、20、生誕地のベツレヘムはダビデの出身地)また、東方から博士たちがユダヤの王を拝礼に来た話には、終末には全世界からすべての王がエルサレムの王を拝礼に来るとの預言(詩編72・11)が背景にある。(その王は神から「公正と正義」を授けられ、社会的弱者を「虐待と暴虐から」救い出す王、月本昭男『詩篇の思想と信仰』頁308)と言われる。
まさに、イエス・キリストを指している。さて、博士たちがヘロデ王に従うことなく星、即ち、神のことばに導かれてイエスを訪ね、戻って行ったことは、前回同様、人は誰に従うとき、真実の道に向かうことが出来るかを教えている。博士とは古今東西の知恵を学ぶ専門家だ。その彼らが王ヘロデに従わないことの結果を分かっているはずだ、にもかかわらず、神に従ったことの意味は重い。一見、牧歌的な物語であるが、権力を思いのままにして弱者を苦しめるヘロデ王ではなく、弱者と共にいる神の示される道を選んだ博士たちの「自由」を学びたい。 |
今週の一句 |
待ち焦れ 富士山昇る 初日の出
―もとゐ―
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2021年1月10日(日)
主の洗礼
マルコよる福音書1章7節-11節
1,7 |
〔そのとき、洗礼者ヨハネは〕こう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 |
1,8 |
わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」 |
1,9 |
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 |
1,10 |
水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 |
1,11 |
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。 |
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両親から神に捧げられたイエスは30歳頃、新しい人生を歩み始めた。それまで、大黒柱として母マリアと共にした、弟妹たちの世話が一段落したのであろう。それにつけ、自分たちやガリラヤの仲間たちの暮らしの理不尽さに悩み憤ったことだろう。そして、それらの苦難からの救いを神に願っていただろう。
ちょうどそのころ、荒れ野の叫び声であるヨハネの洗礼運動が始まっていた。イエスは神の救いに与るために、まず回心の洗礼を受けよの招きにイエスは参加し、新しい人生を歩み出したのだ。
さて、生命は流れである、と言われる。例えば、人体を構成する細胞は常に入れ替わっている。一つとして留まってないのだ。人格も変わり続ける。生物と同様に、聖書を読むことができる。
クリスマスのメッセージ「いと高きところには、栄光、神にあれ。地には平和、(主の)喜び給う人にあれ。」(ルカ2・14田川訳)すべての人に「平和=欠くところのない状態」つまり、誰もが大切にされることの回復に神は人を選び派遣されている。それを「神の救いの歴史」と呼び、創世記から始まる聖書の一貫としたテーマとなる。従って、選ばれた個人、共同体、民族は細胞と同じ入れ替わるが、救いの流れを繋いでいるのだ。
アブラハムからモーセへ、モーセからヨシュアへ、古代イスラエルからユダヤ教へ、そして、洗礼者ヨハネからイエスへと。そして、イエスから弟子たち、つまり、現代のキリスト教徒へと。あらためて、神へと心を向けなおし、イエスの後をつぎ、後世へと繋いでいて行こう。 |
2021年1月17日(日) 年間第2主日 ヨハネによる福音書1章35節-42節
1,35 | 〔そのとき、〕また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。 | 1,36 | そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。 | 1,37 | 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。 | 1,38 | イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、 | 1,39 | イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。 | 1,40 | ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。 | 1,41 | 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。 | 1,42 | そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。 |
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ユダヤ教徒は神のことば、つまり、律法を永遠に解釈し続けると言われる。神のことばは、人間の生き方の最高指針だから、時代の進捗、状況の変化に合わせて読みかえる必要があるからだ。例えば、遊牧民から農耕定着民となった古代イスラエル人の生活が複雑化したとき、神のことばの妥当性を求めて解釈したように。
ユダヤ教徒はその解釈の優れた人を先生とし、それを学ぶ者を弟子と呼ぶ、師弟関係を持った。さらに、弟子はよりよい解釈をする先生を尋ね歩き、あらためて、師弟関係を結ぶのであった。
今日の福音にはその背景がある。神の決定的介入を待ち望む終末思想の時代にあって、イエスも魂の遍歴を重ね、ヨハネの洗礼運動に加わったのであった。やがて、イエスはヨハネから独立し、独自の道を始めた。アンドレア、ペテロがイエスに弟子入りしたのも同様であった。教会の門を潜った私たちも絶えず神のことば、神のみこころ、確かな生き方の指針を探し続けて行こう。 |
今週の一句 |
大雪や 立ち往生続く コロナの禍
―もとゐ―
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2021年1月24日(日) 年間第3主日 マルコによる福音書1章14節-20節
1,14 | ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 | 1,15 | 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 | 1,16 | イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 | 1,17 | イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 | 1,18 | 二人はすぐに網を捨てて従った。 | 1,19 | また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、 | 1,20 | すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。 |
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マルコ福音書の1・1から20節までは、序曲と言われ、福音、つまり、イエスの生涯がなんであるかをまとめ、さらに、今日の14−15節はイエスの宣教全体を要約している。
さて、その言葉、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音において信ぜよ」とは、イエスの登場した今は決定的な時であり、神の統治がはじまったのだ。つまり、イエスを全幅の信頼をもって、イエスにおいて、基礎として生きよ、とマルコは教えている。
従来では、福音とはキリスト教の教義であり、それを信じれば救われる、天国に行けると教えられてきたが、むしろ、イエスこそが神の呼びかけに応えた方としてその生涯こそが福音であり、私たちの人生の目標であると確信しその足跡を辿れと勧めている。だから、弟子への招きが後に続いているのではないか。今日から、新たに歩んで行こう。 |
今週の一句 |
窓越しの 温もり包む 大寒かな
―もとゐ―
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2021年1月31日(日) 年間第4主日 マルコによる福音書1章21節-28節
1,21 | イエスは、安息日〔カファルナウムの〕会堂に入って教え始められた。 | 1,22 | 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。 | 1,23 | そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 | 1,24 | 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 | 1,25 | イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 | 1,26 | 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 | 1,27 | 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 | 1,28 | イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。 |
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イエスと弟子たちの一行はガリラヤのカファルナウムの町の会堂から宣教を始めた。そして、イエスの教えと業を目の当たりにした人々が「権威ある新しい教えだ」と驚嘆したと言う。
イエスにとって、神は終末に救いにくるのではなく、「今」いる、つまり、苦難にある人と「今、共にいる」のであった。『安息日』とは、人として誰もが大切にされる神の現存の時だ。イエスは障がいにより疎外されている人を「真ん中に立たせ」大切にされ、それが、障害の人を苦難から立ち上がらせたのだ。
会堂では神のことば、律法を学び、解釈の議論はされていたが、神は不在だったのだ。イエスは苦難の人と共にいられる神を目に見えるようにしたのであった。それを、経験したことのない「権威ある新しい教えだ」と人々は驚嘆したのだ。 |
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