ももちゃんの一分間説教



今週の一句
空青き しろ雲泳ぎ 金木犀

―もとゐ―


 2020年11月1日(日)
 諸聖人

 マタイによる福音書5章1節-12節

5,1 〔そのとき、〕イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5,2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5,3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5,4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5,5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5,6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5,7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5,8  心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5,9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5,10  義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5,11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5,12  喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」 

 マタイによる山上の説教は、モーセがヘブライの民に神からのことば、即ち、律法を与え、契約を交わしたようにイエスは、弟子たちにイエスに従う方針を示され、契約を彼らと交わしたのだ。従って、その内容は弟子たちが日々近づいて行く目標、理想となっている。

 さて、イエスは寄留者、孤児、やもめを「自分を大事にするように、大事にしなさい」と生きる指針を示された神との契約に忠実に生きる決心を30才頃にし、苦難を負わされたガリラヤの人々と生きられた。そのため、エルサレムのユダヤ教指導者から「神を冒涜する」者として排斥、処刑された。十字架刑上では、弟子からも見捨てられ、孤独と絶望のうちに神を呪って絶命した。

 その後、弟子たちは「イエスを見た」とイエスが神から立ち上がらされたこと、つまり、復活、高挙、神の右の座に着かれた、と宣教を始めた。しかし、弟子たちは、イエスの十字架刑死を「贖罪の生贄」とし、イエスの悲惨な死を英雄の死として美化し、意味を転化した。結局、弟子にとってイエスは無残に殺害された敗者ではなく、死の勝者でなければ「救い主」ではないとのこの世的価値観に縛られていたのではないか。

 ガリラヤ民衆をはじめこの世の苦難を負わされた名もなき人々は、この世的価値観、力、富、知識を持つことが幸いである人たちから犠牲を押し付けられ、虫けらのように殺され、決して、美談とはならない。だから、同様なイエスはガリラヤ民衆に「幸い。貧しい者」(ルカ版)と叫ばずにはおられなかったのではないか。 今日は 『諸聖人』の記念日、苦難を強いられた名もなき人たちと連帯する日としたい。
今週の一句
秋雨に 深く色づく 山路かな

―もとゐ―


 2020年11月8日(日)
 年間第32主日

 マタイによる福音書25章1-13節

25,1 〔そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。〕「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
25,2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
25,3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
25,4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
25,5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
25,6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
25,7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
25,8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
25,9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
25,10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
25,11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。
25,12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
25,13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 今回の譬は、いつ來るかわからない終末における神の審判に耐えられるよう、信徒たちに準備を怠なの戒めとして解せられる。と言うのは、イエスの死後、すぐ来ると思われていた終末がなかなか来なかったからだ。(初代キリスト教会の『終末の遅延問題』と言われる。)

 さて、この譬では、油を用意していた乙女たちが賞賛されたが、待つ時間が際限なく延びたら用意していた油もなくなってしまうのではないか。途方もない量の油を用意できる乙女がいるだろうか。だから、終末を将来のいつか来ることと考えるのが間違っているのではないか。死の準備も同様ではないか。むしろ、「終末」も「死」も突然の出来事だ、人生は儚い、だから「今」を最大限に生きよ、ではないか。

 イエスはある時、苦難のガリラヤの人たちに出会った。憤り行動を開始した。老母、幼い弟妹を残し、先も考えず、今、パンをくれと動いたのではないか。そのイエスが何十人、何百人と続けば、大きな運動となるのではないか。だから、油の用意とは、教会がその人材を生み続けるところとなるなのだ。
今週の一句
街並みや 黄金輝き 秋夕陽

 2020年11月15日(日)
 年間第33主日

 マタイによる福音書25章14-30節

25,14 〔そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。〕「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
25,15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、
25,16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
25,17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
25,18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
25,19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
25,20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
25,21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25,22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
25,23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25,24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
25,25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
25,26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
25,27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
25,28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
25,29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
25,30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

 今日の譬えもまた終末の裁きへの警告だ。前回の油の準備と同様、預けられた資本を増やさないと、神からの祝福は得られないぞ、と自助努力の勧め、自業自得を戒めているように思える。しかし、その意味の譬であるなら、天の国(マタイの「神の国」の言い方)は優秀な者、成功した人しか入れないのか、イエスの伝えた神の国とはこの世と同じなのかと疑問が沸く。

 しかし、イエスが共にいた人たちは、この世から敗者、落伍者と呼ばれ、排除された貧しいガリラヤの人たちであった。前回の用意する「油」とは、神の生き方の指針「人は誰もが平等だ」、即ち、人々の関わり合いが貧しい人々の苦難を軽減し、大事にされることに従うことだった。

 終末、神の国とはその相互扶助の状態だ。ここから、今日の譬も同様に、利益追求とは『隣り人を自分と同じように愛せよ』、即ち、「関わり合い」、助け合い、誰もが平等にされる、「共助」のことを言っていると思われるのだ。
今週の一句
落日や 万物眩しき 紅葉山

―もとゐ―


 2020年11月22日(日)
 王であるキリスト

 マタイによる福音書25章31-46節

25,31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25,32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25,33 羊を右に、山羊を左に置く。
25,34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25,35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25,36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25,37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25,38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25,39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25,40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
25,41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
25,42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
25,43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
25,44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25,45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
25,46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

 前三回の譬では、終末の裁きへの備えを勧めていた。今回は、いよいよ裁きの譬となっている。これも、イエスが語ったよりもマタイの神学ではないかと思う。

 マタイはイエスを旧約、律法の完成者と見ている。それは、イエスが神との契約に忠実に生き、なかでも、律法の根本を「いけにえではなく憐み」(マタイ9・13)と訴え、小さくされた者、罪人、遊女、徴税人を「自分と同じように大事」にされたことからだ。そして、イエスに従う弟子たちに「心の貧しき者」になれと、神のことばに忠実に生きるよう勧めた。

 「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、の天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7・21)『主よ、主よ』とは祈りや祭儀を行うことではなく、御心、すなわち「人を大事にすること」が弟子の本領だと言う。

 従って、今回の譬の裁きの基準となる。しかも、「人を大事にする」ことは、特別なことではなく、当然のこと、自然の行為と思われている。「いつ、…したでしょうか」(マタイ25・37-40)。これは、前回の「今」出会った人への出来る限りの関わり、と同じではないか。その意味でも、「終末」は「今」である。その都度、神から問われている「今、あなたは何をしたのか」と。
今週の一句
渓谷や 朝陽射し込む 照る紅葉

―もとゐ―


 2020年11月29日(日)
 待降節第1主日

 マルコによる福音書13章33-37節

13,33 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
13,34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
13,35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
13,36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
13,37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

 「気をつけよ。眠らずにいろ。」(マルコ13・33)と教会の新しい典礼?は始まる。福音書は新しい天と地、「神の国」の到来、終末以前には天変地異、世界中の大苦難を生じるが、やがて、必ず、キリストが審判者として選ばれた人を迎えに来るから、その日を待てと信徒に勧めている。

 さて、福音書の構成によると、その所謂『小黙示録』は、イエスの十字架刑死の前に置かれている。つまり、それは、イエスの受難が強欲な世界の混乱の徴であり、「神の国」、理想世界とは無辜の民、イエスもその一人だった、彼・彼女らの苦難を乗り越えなければ、到来しないと福音書は示している。

 それを今日的に読みかえれば、以下のようになる。現代世界は日毎に強い者が権力を振るっている。その下で、常に被害者は無辜の民だ。コロナ感染症はじめ、災害、紛争、貧困、飢餓、差別、等々の苦難はより弱い立場の人に降りかかっている。「気をつけよ。」とは、イエスの弟子たちは世界の動きを分析し、被害者へ目を向け、その苦難を取り除く努力をしろ、「眠らずにいろ。」との呼びかけとなる。


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