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2020年9月6日(日) 年間第23主日 マタイによる福音書18章15-20節
教会とは、呼び集められた者、との意。つまり、イエスがガリラヤで始められた神のこころの実現、「誰もが大事にされる」運動に参加した者たちだ。参加者には資格や能力は問われない。ペテロや他の弟子たちのように裏切る者、老若男女、健常者や病弱者、徴税人や遊女などなど多様性に富む。それは、まさに、イエスの一匹のいなくなった羊を99匹の羊を残してまで捜す「神のこころ」そのものだ。 教会、即ち、イエス運動では、選別してエリート集団になるのではなく、自己を省みつつ謙虚に、誰も罪に定めず、置き去り、見捨てず、むしろ包容しつつ旅をつづけて行くものとなることだ。 |
2020年9月13日(日) 年間第24主日 マタイによる福音書18章21-35節
イエスはガリラヤの苦難する人々を目の当たりにし、エルサレムの大金持ちに較べその不公平・不平等さに心痛め、それを解消しようと運動を始められた。その根本を幼少からの聖書の学びとガリラヤの風土から得たのであった。特に,創世記1~11章の「人間論」であった。まず、古代オリエントの大帝国と違い、ガリラヤの豊かな恵みを神は無条件に人に与えられる事。その自然に居続けるためには、人は他者と共に生きて,それを守る使命を与えられていること、自分と異なる人を認め、受け入れる者になること、富獲得競争ではなく分かち合うこと、を神は人と契約を結ばれたことをイエスは学んだ。 しかし、神との約束を反故にし、人は真逆に、人を大事にしないで生きて来たのであった。人は神の前では決して正当化できないほど、背き続けているではないか。教会は自分を棚に上げ、他者の過ちを針小棒大に非難糾弾する前に、まず、神の前で自分を見つめることから始めようとイエスは呼びかけている。 |
2020年9月20日(日) 年間第25主日 マタイによる福音書20章1-16節
イエス運動は神のこころ、「誰をも大事にする」を証しするものであった。従って、ついて来た者たちの群れ「教会」も『互いに大事にし合う』を約束した。 今日の譬えは「教会」だけではなく、社会の基本方針を提示している。出エジプトの神は奴隷の叫び、苦しみを聴き、行動されたように、イエスはその父である神に倣い社会の片隅に追いやられた人々に目を注ぎ、耳を傾けた。ガリラヤの苦難に喘ぐ人々の重荷を軽くしようとした。それは、譬えの主人が最も見捨てられた人を、有能で働き者と同じように大事にする「神の統治」の実現だ。教会はそれに召されている。どうしたら末端の人たちが大事にされるかは神任せではなく教会が考えるところだ。 |
2020年9月27日(日) 年間第26主日 マタイによる福音書21章28-32節
イエス運動の舞台は辺境のガリラヤであった。イエスの前に、飢え渇き、裸で病気のひとたちが倒れ、見捨てられていた。彼・彼女たちが食べられ、癒され、人間にふさわしい生活が送られるよう、彼らの中で働かれた。しかし、それは大海の水をざるで掬うようなものであった。 イエスは学んだ。ガリラヤの彼・彼女らの不幸の原因は社会構造上から来たもの、即ち、エルサレムにいる社会の指導者、有力者たちの不正義、即ち、神からの背反である拝金主義にあることを。ユダヤ人の誰もが契約した神の掟の中心である「より弱い人を大事にする」に従うよう彼らに呼び掛けたのだ。 福音書ではその論争物語をイエスの受難に至ったものとして描いている。従って、エルサレムでの過ぎ越し祭への巡礼に出かけた際、宗教・政治指導者と「神の掟」について論争することとなった。発端は、神殿でイエスが暴れたことだった。イエスにとって神殿は信仰の名によるガリラヤの貧しい人々を神殿税や巡礼で搾取し、律法による差別の正当化によって支配者の富と権力を維持する宗教支配体制の象徴でしかなかった。神の望まれるのは生贄や犠牲ではなく「あわれみ」であるとの預言者の言葉に従うイエスは義憤に駆られて暴れたのであった。 その過激な振る舞いに支配者たちは当然、イエスの処罰を考えた。普通なら、神殿での乱暴だけでイエスを亡き者にできたのに、何故かしてない。それ以上の正当な理由を見出すために律法論争をイエスに仕掛け、危険思想、「神への冒涜」、即ち、死刑に値する罪をイエスから明確に引き出そうとしたと福音書は語るのだ。 さて、エルサレムのユダヤ教指導者たち(当時は同時に政治指導者でもあった、ローマからユダヤの自治を任されていた。)は、イエスのガリラヤでの運動、エルサレムでの神殿での行動、治安破壊を何の権威でしているのかを論争から聞き出そうとした。しかし、実は自分たち宗教的指導者としての大祭司の位も神からではなくローマ帝国からの任命によるのであった。だから、イエスの権威の正当性を問うことはナンセンスなのだ。 そんな、神に背き贅沢に暮らしている指導者から搾取・差別される遊女や徴税人を神が大事にされる、と言うイエスの発言は誰からも強要されたことではなく彼らへの共感、こころを痛めたイエス自身から出たのだ。イエスが苦難するガリラヤの民衆の立場に共感すればするほど、権力を振りかざし飽食贅沢に暮らしているエルサレムの支配者たちは、神の祝福からは遠く、むしろ、遊女や徴税人こそ相応しいと叫ぶのであった。 |
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