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2020年8月2日(日) 年間第18主日 マタイによる福音書14章13-21節
マタイ福音書では、イエスを旧約聖書の完成者として描いている。旧約聖書とはモーセの律法とエリヤのような預言者を指す。まず、モーセのように、人々に神の言葉、律法を伝え,その神に従うように招く、神と人々との契約の仲介者、それは、山上の説教や例え話しをするイエスの姿に重なる。次に、エリヤのように人が神との契約に忠実に生きるよう立ち返らせ、力ある業、パンを分かち、死者を生き返させる、などを人々に神の恵みをもたらすイエスとして。 更に、マタイは、洗礼者ヨハネは旧約の人とし、旧約を超えた者であるとイエスを位置づけている。イエスの受洗の場面では、ヨハネに「わたしより優れた方」、「火と聖霊で洗礼を授ける方」とイエスを紹介し、弟子に「あなたは来るべき方ですか」と尋ねさせている。また、ヨハネのヘロデへの告発のように権力者に対する批判的姿勢ではなく、ガリラヤの農民たちの中にいるイエスの姿勢を描き、捕らえられ処刑されたヨハネと対比させている。しかし、後にはイエスもヨハネ同様になったけれど。いずれも、既存の体制とは異なる価値観、「誰もを大事にする」生き方は十字架の道となることを教えている。 |
2020年8月9日(日) 年間第19主日 マタイによる福音書14章22-33節
以前にも指摘したように、イエスがモーセを超える、旧約を超える人であるとの描写が続く。なぜなら、マタイ福音書の読者はシリア地方にいるユダヤ人キリスト者だと言われている。つまり、彼らはユダヤ教徒として、モーセの偉大さを教えられ、その教え、律法に従う約束に生きていたから、あらたに、イエスとの約束に生きるには、イエスをモーセより偉大だと繰り返し示し続けなければならなかったのだ。 さて、そのイエスとの約束に生きるには神が絶対、確かであると信頼するように、イエスについても同じだ。イエスとの旅は荒野の旅の如く、危険や困難が待ち構えている、ボーッとしていたらたちどころに野獣に食い殺される。ペテロが溺れたように。旅を続けるには確かなリーダー、言葉、確信が必要だ。イエスこそ、その信頼に値するとマタイは教えている。 |
2020年8月16日(日) 年間第20主日 マタイによる福音書15章21-28節
イエスの「神のこころ」を広げる運動を福音書では、ガリラヤ地方での悪霊追放、病気癒しとして描かれている。つまり、ガリラヤの農民たちは、圧政、重税の政治・経済的、宗教的差別が重なり、飢え、貧困、病気の重荷を負わされ、見捨てられていた。 置き去りにされた彼・彼女らにとって何より必要だったのは、今日のパンと借金の帳消し、病の癒しであった。その願いに答えようとしたのが形はともあれイエスだった。そのイエスに接し、パンが与えられ、病が癒されたとの体験から多くの奇跡伝承が残された。 さて、今日のティルス出身の母親がイエスに必死に願った娘の病気癒しの伝承にもそのイエスの特徴が表れている。ティルスは紀元前地中海貿易で大繁栄した都市だ。当然、現代同様、その都市には一部の富豪と大多数の貧困層がいただろう。なかでも、寄留の労働者、奴隷、孤児、寡婦は極度の貧困に置き去りにされていただろう。娘を助ける手段や繋がりを持たない寡婦の母親は手をつくして地元の宗教家にも助けを求めただろう。しかし、その神々は無力であった。ついに噂を聞いたユダヤ人イエスに縋った。振り向き声をかけ娘を手当したイエスの姿に地元の既成の宗教には不在の神、誰をも見捨てず、大事にされる神がいられるのを母親は発見した。 |
2020年8月23日(日) 年間第21主日 マタイによる福音書16章13-20節
イエスは牧者のいない羊たちの様であった極貧の人々を、目の当たりにして憤り、運動を開始した。取り残されていたガリラヤの貧しい人たちのなかへ出かけ、重荷を軽くし、休息できるよう働かれた。イエスに出会ったガリラヤの人たちは神の近さ、大事にされている自己を見出し、神を崇め感謝した。 弟子たちは、その現場にいて、イエスこそ「メシア」、ローマ帝国の圧政からユダヤを解放する神から遣わされた者だと期待した。しかし、彼らを見捨て置き去りにしていたユダヤ教指導者、支配者たちはそんなイエスを快く受け入れず、むしろ、神を冒涜していると非難、排斥した。それに気づいていたイエスは弟子たちに繰り返し尋ねただろう。「私を誰と思い、ついて来ようとするのか」と。イエスは弟子たちに私は栄光のメシアなんかではない、捕らえられ処刑されるのだ。そんな私についてくるのか、と。教会の土台は復活、栄光のイエスではなく、そのイエスなのだ。 |
2020年8月30日(日) 年間第22主日 マタイによる福音書16章21-27節
先週の続き。イエスの旅が受難を避けられないこと、その受難の上に教会、即ち、神の招かれた群れが造られることを弟子たちに諭された、それでも、ついて来るかと弟子に尋ねたのだ。 イエスの旅は、私欲、権力や富に捕らわれた(旧約聖書では「偶像」と呼ぶ)生き方から、自由になり小さくさせられた人たちとの分配・支え合いを目指す。まさに、旧約聖書のエジプトから約束の地への荒野の旅に重なる。当然、「弱者」を犠牲にし、見捨てて行く弱肉強食の旅ではない。イエスの旅が、理想を目指した古代イスラエル王国が富、力の偶像神に仕えた結果、国家滅亡となり、理想郷実現の旅が霧散した歴史の繰り返しとならないために、老若男女、みなが助け合う旅になるよう、イエスは弟子たちに富と力に頼る勢力からの苦難を乗り越えて行こうと、弟子たちに呼び掛けたのだ。 |
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