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2020年7月5日(日) 年間第14主日 マタイによる福音書11章25-30節
洗礼者ヨハネは獄中からイエスのところへ弟子を遣わし、イエスが「メシア」かどうか尋ねさせた。ヨハネは神からの裁きを免れるために、ユダヤ教指導者たちに悔い改めの洗礼を受けるようにと呼びかけた。 他方、イエスはユダヤ教指導者から「罪人」と呼ばれ、差別と搾取・排斥の対象であったガリラヤの貧しい人たちに寄り添っていた。貧しい人たちは人間らしく遇されたことに喜びと生きる力を与えられ、イエスと彼・彼女らはまるで「神の支配」の下にいるのではないかと感じていた。 イエスは神の近さを、ユダヤ教指導者が負わせる重すぎる律法や祭儀の厳格な遵守によってではなく、いっしょに飯を食い酒を酌み交わし、パンを分け合い、力を出し合い、共に笑い、泣くところにあると、運動をしたのであった。荒野で厳しい修行と禁欲に生き、指導者たちを告発したヨハネにそのイエスの姿を理解できなかったかもしれない。 |
2020年7月12日(日) 年間第15主日 マタイによる福音書13章1-23節
カナンに移住して来たヘブライの民は驚き、賛美した。と言うのは、カナンでは種を撒けば芽を出し実らせる雨の降る神の恵みを体験したからだった。彼らが彷徨いつづけたアラビア半島ではカナン以外、一滴の雨の降らない不毛の地、農作物の出来ないところで、食糧を得るには水を管理する王の奴隷になるしかなかったから。だから、種を撒けば必ず実りを与える神に感謝と賛美したのだ。 そのカナン、なかでも、一番の農産物生産地であるガリラヤに生まれ育ったイエスには実感して神は絶対であった。それ故、神のことばは必ず実現するとイエスは信じていたのではないか。その豊かな地にもかかわらず、飢えた人たちのいることを神は決して見捨てられないと。必ず、食べられ人間として大事にされることを。イエスは十字架の受難にも臆することなく、ひたすら、神のことばを撒き続けた、貧しい人の中に居続けたのだ。 |
2020年7月19日(日) 年間第16主日 マタイによる福音書13章24-43節
イエスの運動は、神の思いが全地に広がるための過程だ。参加者は多様だ、荒野を旅した、ヘブライの民や12弟子のように目的に向かって近づいて行くのだが、方向、手段、思想は一致していなかった、そのため脱出組の一世代、モーセを含め誰も約束の地には入れなかった。故に、イエス運動でもその過程には後退や停滞、イエス自身の十字架刑死の挫折もあるだろう。 しかし、世界の人権、平和獲得の道と同様に、何百年もの途方もない歩みを続けて行くうちに、必ず、実を結び、空の鳥が巣を作れるほど大きな木になると確信を持って、弟子たちはイエスの後に従って理想に向かって行くのだ。 |
2020年7月26日(日) 年間第17主日 マタイによる福音書13章44-52節
イエスはユダヤ人として両親のもとで幼少期から聖書(キリスト教で言うところの旧約聖書)を学び、神との契約、即ち、神のことばに従って生きるよう教育されて来た。13歳頃いわゆる元服式でテストがあり、合格すると晴れてユダヤ人の大人として、神と契約の人生を歩み始めることとなる。ここに、成人イエスは人生の目標、「神の宝」となる幸い、「畑の宝」を見出した。しかし、父ヨゼフ亡き後、大黒柱であるイエスの前にはとりあえずは幼い弟妹たちの世話が待っていた。その勤めが一段落して、いよいよ「神の宝」を目指して旅を始めた。30歳ごろと言われる。その当時の平均寿命、つまり、イエスは人生の最後期に旅立ったのだ。 イエスの前には、生まれ育って以来、ガリラヤの農民たちの極端な貧困、不条理の世界が続いていた。イエスは憤った。なぜ、神との契約に生きるはずのユダヤ教指導者たちの変わらない驕り贅沢な暮らしは何なのだ、それに反して、永遠に続くかのようなガリラヤの飢え渇き、裸で、病み、牢獄に入れられている見捨てられる農民たちの様を神は見捨てておかないだろう、神の望まれる状況に近づけることが「神の宝」として生きること、種を撒くことだと運動を開始したのだった。 |
2020年8月2日(日) 年間第18主日 マタイによる福音書14章13-21節
マタイ福音書では、イエスを旧約聖書の完成者として描いている。旧約聖書とはモーセの律法とエリヤのような預言者を指す。まず、モーセのように、人々に神の言葉、律法を伝え,その神に従うように招く、神と人々との契約の仲介者、それは、山上の説教や例え話しをするイエスの姿に重なる。次に、エリヤのように人が神との契約に忠実に生きるよう立ち返らせ、力ある業、パンを分かち、死者を生き返させる、などを人々に神の恵みをもたらすイエスとして。 更に、マタイは、洗礼者ヨハネは旧約の人とし、旧約を超えた者であるとイエスを位置づけている。イエスの受洗の場面では、ヨハネに「わたしより優れた方」、「火と聖霊で洗礼を授ける方」とイエスを紹介し、弟子に「あなたは来るべき方ですか」と尋ねさせている。また、ヨハネのヘロデへの告発のように権力者に対する批判的姿勢ではなく、ガリラヤの農民たちの中にいるイエスの姿勢を描き、捕らえられ処刑されたヨハネと対比させている。しかし、後にはイエスもヨハネ同様になったけれど。いずれも、既存の体制とは異なる価値観、「誰もを大事にする」生き方は十字架の道となることを教えている。 |
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