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2020年6月7日(日) 三位一体の主日 ヨハネによる福音書3章16-18節
キリスト教徒はイエスが神との契約に忠実に生きられた人として敬意を表し、彼に倣い、後について行く決意を持っている。今日の箇所が表現するように、イエスは神の意志、即ち、「誰をも置き去りにしない、大事にする」を打ち捨てられたガリラヤの貧しい人たちに身を以て示されたのだ。 では、イエスは何故、神の意志を知ることができたのか。旧約聖書では絶対者なる神を見る者は死ぬと言われ、有限な人間には知ることができない。それ故、神の意志を知るには仲介者であるモーセに与えられた神の言葉によるとされ、人が神との契約を結ぶのはモーセの教えなのだ。 神は人に命を与え、生きる者とされた、それは、神の意志を世界に実現するためであった。ここに、神は私たちの生きる使命、目的と言う恵みと幸いを与えられたのだ。この使命の遂行には、絶えざる学び、研究、実践が必要だ。イエスたちは子供時代、親から徹底的に旧約聖書、神のことばの学びが課せられた。その中では、預言者らの注意に耳を傾けなかった古代イスラエル人の背反の歴史も深く学んだ。その結果、ガリラヤの置き去りにされた人々へ神の思いを伝える責務を見出したのだ。 |
2020年6月14日(日) キリストの聖体 ヨハネによる福音書6章51-58節
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは永遠の命を持つ」、もちろん、これは教会が教えるミサでいただくキリストの体を指す。しかし、日々、飢餓状態にあるガリラヤの貧しいひとたちにナザレのイエスが言ったであろうか。イエスがサマリヤの井戸の女性に言った「永遠の命に至る水を与えよう」も同様ではないか。その前の文脈には、イエスのもとへ来る人たちは空腹を満たすパンを求めるため、つまり、精神論ではなく実際の肉体に必要なパンを人々は求めた、ことからも、そう推測できる。 私たちキリスト者、十分に食べられる者はミサの祝いを死後の永遠の命をもらうため、ないものねだりするためであろうか。さらに、何より、ナザレのイエスの生涯をわたしたちがミサでの「キリストの体」をいただき、来世への幸いを得るための生涯だったと、生き方を変えることのない「安価な恵み」(D・ボンヘッファー)にしまって良いのだろうか。 イエスはご自身を、荒野でのマンナの故事からモーセが飢えた民に与えたパンと比べ、「真の、天から下った、命のパン」と呼んでいる。また、「下った」を「父(神)が遣わした」と同意に用いている。さらに、イエスが父から遣わされたのは父の意志を行うためと言っている。これらの言明は、ヨハネ福音書の冒頭『ロゴス賛歌』のことばが「神のところにあった。生命であった。神のもとから派遣された。神の子となる権利を与えた。」に対応する。つまり、モーセのパンとはモーセがいただいた神のことば、本来は「命と幸い」に導くはずであったが、古代イスラエル人は背反し、利己主義に走った。金持ちと貧乏人、権力者と弱者への分断、差別に。まさに、命から死へと。 それに対し、イエスは神のことば、意志を実行するため天から、父から派遣されたのだ。欲望追及の「飢え、渇き」の止まらない生ではなく、他者と分かち合う生への転換を示されたのだ。私たちはそのイエスの生を倣うことこそがイエスの体をいただくことではないだろうか。 |
2020年6月21日(日) 年間第12主日 マタイによる福音書10章26-33節
マタイ福音書ではイエスをモーセになぞらえて描いている。例えば、山上の説教ではシナイ山で神から授かった言葉、いわゆる、神の民としての生き方、生活の仕方、歩き方の指針、十戒をヘブライの民に仲介したモーセのように、イエスが弟子たちにその生き方を与えられたと示す。他、海を分け民を渡らせたモーセのように、湖を渡り、嵐を鎮めるイエス、神に願い飢えた民にパンを降らせていただいたモーセのように、同じく神に祈り、空腹の大勢の人たちが満腹するまでパンを配ったイエス。 これらのことから、イエスをモーセに模しているなら、イエスと弟子の宣教旅行はモーセの出エジプトの旅に見なせると考えられる。モーセがエジプトで奴隷であったヘブライの民を解放し、幾多の困難を乗り越え、自立し互いに尊重し合う理想の社会、約束の地への旅は、イエスと弟子たちが悪霊、即ち、不平等な政治・経済・宗教的構造に囚われ、搾取と差別に飢えと病気に苦しめられていたガリラヤの貧しい人々を、同じく解放し、平等な誰をも大事にする社会、神の国の実現への旅と言えるのではないか。 その過程の中で、モーセは民や指導者たちから不平不満、背信、を受け、その重荷に耐え切れないことが何度もあり、ついには、民の背信の責任を取らされ、約束の地には入れず、埋葬もされなかった。イエスもまた悪霊との妥協なき闘いによって、弟子たちとユダヤ教指導者たちから裏切られ非難、排斥され、ついには、処刑されたのであった。 |
2020年6月28日(日) 年間第13主日 マタイによる福音書10章37-42節
イエスはガリラヤの疲弊した民に(「羊飼いのいない羊の群れのように、混乱し、打ちひしがれていた」マタイ10・36参照)神の思い、「あなたがたは大事にされている」を伝えようと運動をはじめられ、一緒に参加する弟子を呼び集めた。そして、運動の心構えを「山上の説教」同様話した。 前回述べたように、その運動はエジプトの奴隷状態から脱出し、乳と蜜の流れる約束の地、神の思いの実現した社会を目指した荒野の旅に例えられる。さて、荒野の旅は、弱肉強食の死の世界だ。ボヤボヤしていたり、自分第一と勝手に動いたら自分だけではなく仲間全員が食い殺されてしまう。 無事な旅、運動を続けられるには、イエスのように、確かな神のことば、指針に聴き従い、助け合い、弱者の保護を優先すると旅する者、教会に連なる者たちが互いに約束し合わなければならない。 |
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