|
2020年5月3日(日) 復活節第4主日 ヨハネによる福音書10章1-10節
ヨハネ福音書ではイエスを様々な象徴を使って説明している。ことば、光、真理、渇かない水、飢えないパン、等々。今日の箇所では「良き羊飼い」だ。先祖を羊やヤギの遊牧民だったとするユダヤ人には馴染みの象徴だ。預言者のことばにも羊飼いへの言及が度々されているから、福音書の背後にあるヨハネ共同体には当然イエスを例えるにはふさわしかったのであろう。と言うのも、ユダヤ教指導者の頑迷固陋を指摘し、姦淫の現場で捕らえられた女性、生まれつき目の見えない人を、差別、有罪にし殺害する指導者らを厳しく非難し、挙句、殺害されたイエスの姿に預言者の「良き羊飼い」の言葉を重ねたのであろう。 エゼキエル34章「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときにその群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。…わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは、失われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。」(エゼキエル34・11-16) |
2020年5月10日(日) 復活節第5主日 ヨハネによる福音書14章1-12節
ヨハネ福音書では、イエスの十字架刑死は父なる神の栄光を表し、子であるイエスの父のいる天への帰還(いわゆる、昇天)を意味する。つまり、イエスは神の「人を大事にする」み心を地上に実現するため父から派遣されたと言う。 では、何故、父はイエスを遣わされたのか。福音書には次のようにも書かれている。何故なら神はそれほどに世を愛して下さったので、一人子なる御子を与え給うたのだ。彼を信じる者がみな滅びることなく、永遠の生命を持つためである。(ヨハネ3・16、田川訳)神の人への限りない愛、大事にする心からであり、人が永遠の生命(「いつでも明るく活き活きと生きる力」)を持って生きて欲しいとの思いだからと言う。 前回のエゼキエルのように、イエス時代のユダヤ教指導者たちも神との約束を破り、他者を大事にするのではなく、他者を差別し、搾取し死に至らしめていたのだ。イエスはその指導者たちに回心を呼びかけたのだ。また、福音書記者は、旧約の預言者エリヤが神から遣わされ古代イスラエル王国の王や支配者たちを告発し糾弾して、迫害を受け、ついには、天へ上げられた故事(参照:列王記上17章~下2章)に、イエスを重ねたのではないか。 |
2020年5月17日(日) 復活節第6主日 ヨハネによる福音書14章15-21節
イエスの死後、弟子たちは立ち上がり、宣教へと出かけた。その間の経緯をヨハネ福音書20・19-23で語られている。つまり、イエスの生涯を旧約聖書を手掛かりに振り返り、父なる神の意志を果たそうとされたことを理解したのだ。 今日の箇所では、それを聖霊の働きであると述べている。現代のキリスト者も聖書を読み、イエスへの思い出に馳せ、その後に、ついて行くことは聖霊の働きと言えるのだ。 |
2020年5月24日(日) 主の昇天 マタイによる福音書28章16-20節
マタイ福音書の昇天の記事では、復活したイエスが弟子たちに福音の世界宣教を命じた、となっている。 さて、イエスが「復活」したとは、繰り返しになるが、弟子たちが生まれ変わったことを説明する物語と言えるだろう。即ち、何故、イエスを裏切った弟子たちが、そのイエスこそが「メシア、キリスト」であり、イエスをそう信じれば、神の裁きを受けず、むしろ、神のゆるしを与えられる、と宣教に賭けた弟子たちの「新生」の姿を言う。 その契機は、イエスが弟子たちに現れ、声を掛けたからと説明される。と言うことは、弟子たちは生前中のイエスへの無理解が、分かり、生死を賭けるほど確かな価値、それまでの自己を誇る生き方から、他者と共に生きると神と契約し、忠実になることへの回心、新生をしたのだ。イエスは「待っている人」、「必要としている人」のところへ出かけた、つまり、ガリラヤの苦難を負った人々と生きられた。その「神の国」の宣教へ弟子たちは出発(旅だった)のだ。 |
2020年5月31日(日) 聖霊降臨の主日 ヨハネによる福音書20章19-23節
福音書では、イエスの復活とは弟子たちの新生、第二の創造のこと。暗黒に光が射し、すべてが明るみになったように、また、イエスの息吹を受けて瀕死の弟子たちが息を吹き返したごとくだ。使徒言行録では激しい風が吹き火のような舌が弟子たちに降りたと描写して、第一の創世記の天地創造を連想させる。 つまり、神の創造とは混沌の世界、神話で説明されたおどろおどろしい世界をことば、理性で意味、意義を説明し「分かる」ようにしたこと、無秩序ではなく秩序のある世界であることを示し、人間の使命を明らかにしたことと言われる。同じく、イエスの十字架刑死に至る生き様が何であるかの暗黒にいた弟子たちが聖霊と(舌)言葉、理性により合点し、神の人を大事にされることへ十字架の道を歩き始めたのだ。 |
|