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2020年4月5日(日) 受難の主日 マタイによる福音書27章11-54節
イエスの「神の国」運動、つまり、誰もが大事にされると言う神のみ心の実現は、「石をパンに変える」や全世界の支配によるのではなく、ガリラヤの苦難にある人々との寄り添いによるのであった。しかし、そのイエスはガリラヤでは民衆から「メシア」、奇跡行為者として支持を受けた。他方、見て来たように、ヨハネ福音書ではそのイエスを拒否するエルサレムのユダヤ教指導者との対立がエスカレートし、ついには、殺害まで計画することとなったと描かれている。 福音書がそろって記す受難物語の第一場面、イエスがエルサレムで過ぎ越し祭、ユダヤ人アイデンティティを高める祭りを祝うために来たとなると、否が応でも、巡礼者は「メシア」、ローマ帝国の圧政からの解放として熱狂的な歓迎を受けるだろうし、指導者たちは対ローマ帝国との関係で騒動が起きないように、警戒し殺気立つのは必須だと、読者に想像させる。しかし、福音書の記述は、イエスの入城が民衆や指導者の思惑と異なる姿を描いている。すなわち、武力や奇跡をもって「神の国」をもたらすのではなく、非暴力・無抵抗で、むしろ、「柔和」腰を曲げたへりくだりの姿勢でもたらす方であることを示している。 |
2020年4月9日(木) 主の晩餐 聖木曜日 ヨハネによる福音書13章1-15節
ヨハネ福音書の最後の晩餐物語は他の福音書とは異なるが、新たな視点を与えてくれる。他の福音書では、イエスとの新しい契約締結式となっているが、その契約とは何かを教える。すなわち、裏切る弟子たちを招き受け入れ、祝うと言うこと。それこそ、有り得ない約束をするのだ。 イエスの生きざまは如何にしてこの世の人々が互いに大事にし合えるのかを示している。力によらず、金によらず、魔術によらず、ただただ、身を低くして自己を空しくして受け入れることによるのだと教えているのではないだろうか。イエスの十字架刑死が如実に示している。 また、子ロバに乗って入城したイエスの姿の意味を示している。「柔和な」、つまり、「へりくだり」または「重荷を背負って腰をかがめた状態」とは他者の過ち、罪責を負うことなのだ。イザヤの「苦難の僕」の詩の姿である。彼は自らの実りを見/それを知って満足する。 わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。 …彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。 多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。(イザヤ53章11節,12節)更に、イエスの負ったものは、ユダヤ教指導者たちから「罪人」とされ、苦難を負わされた人たちをもであった。教会の祝う晩餐もイエスを倣うことを約束するものでありたい。 |
2020年4月10日(金) 聖金曜日 主の受難 ヨハネによる福音書18章1節-19章42節
イエスは神を冒涜したとユダヤ教指導者たちから死罪の判決を受け、処刑執行のためその権限を持つローマの総督ピラトによる裁判に引き渡された。 ヨハネ福音書によるピラトのイエスへの尋問の焦点はイエスは「王」であるか、否であるのかだ。ピラトにとって「王」はローマ皇帝以外にはいなかった。それを拒否し礼拝しない者は反逆罪と処刑されるのであった。後のローマ帝国によるキリスト教徒迫害の理由もそれであった。ローマ皇帝は圧倒的な軍事力によって世界を征服し、資源の収奪と被征服民の奴隷化によって富を独占したのであった。ピラトは皇帝の側近に取り入り、出世し、権力を手に入れようとしたらしい。そんなピラトにとってユダヤ人指導者たちが、イエスを「神の子」「王」と称したから死罪に訴えたことを全く理解できなかったのだ。 ピラトには富も軍隊も持たないイエスがただのガリラヤの貧民でしかなかったのだ。聖書によれば、神は「どんな人をも大事にされる方だ」。人がその神ヤーウエを「王」とし、その言葉に従うなら、互いに大事にし合うのが人生の目標となる。イエスはそれを目指したが、この世の「王」に従う人たちから拒否され、処刑されたのだ。イエスの受難とは神に従うことはこの世から拒否されることになるとの意味を言う。 |
2020年4月12日(日) 復活の主日 日中のミサ ヨハネによる福音書20章1-9節
金曜日は暗黒の日であった。イエスと彼の運動の仲間にとっては、貧しい人々の重荷を軽くしようと、彼・彼女らと寄り添っただけのことが支配者・権力者から暴力的に排除され理不尽にも殺害されたのであったから。言わば、この世の常として憎悪が愛を覆いかぶさり、滅ぼしたのだ。 歴史上、不平等に抗して立ち上がった、ガンジー、キング牧師、中村哲さんはじめ無数の名もなき人々がイエスと同様、殺害され続けられている。けれど、彼・彼女らの遺志は消えない、慕った人々には微小ながら燃え続けている。この世の暗黒に穴を開けられるのは、イエスは生きている、つまり愛は滅びない、愛は勝つ、と言い続け、前へ進むことを先人たちは教えている。女たちの思いが岩を開けたように。 |
2020年4月19日(日) 復活節第2主日 ヨハネによる福音書20章19節-31節
ヨハネ福音書ではイエスを神の子と信じる人と拒否する人の二者を描き、後者には闇の子、罪人だと裁いている。それは、その福音書が書かれた背景に、ナザレのイエスを神の子と信じる者がユダヤ教から異端とされ、排斥された時代せあったと言われてる。 従って、福音書の共同体では、自分たちイエスへの信仰こそ正しいと主張しなければならなかったのではないか。しかし、その彼らにとっては、神の子が十字架刑死したことは謎だった。刑死の意味を掴むまでは暗闇の長いトンネルであったろう。 それを打開したのはイエスの生前の姿であった。どこで、何をイエスはしたのか。サマリアの女性や生まれつき目の見えない男のように苦難を背負わされた人々の中で、彼・彼女らの傍らに立ち、そのため殺害された、まさに、誰をも大事にされる神に従って生きた「神の子」だったのではないか、今、死の淵に立っている我々共同体の中にいてくれてるのではないか。 そうだ、それに賭けよう、彼らはイエスから起こされ、新しく生まれ変わり、いつもいてくださるイエスと共に「神の子」の宣教へ旅立ったのだ。それを、復活したイエスとの出会いと物語ったのではないか。 |
2020年4月26日(日) 復活節第3主日 ルカによる福音書24章13-35節
イエスが復活した、神が起こされたとの信仰は、裏切った弟子たちが、何故、イエスは「キリスト(救い主)」であると生死を賭けて宣教したのか、その出来事を説明するために物語化されたのだろう。 弟子たちこそが、言わば、死から復活、生まれ変わったのだ。どうしてか、弟子たちの閉じていた目が開かれ,認識し、心が燃えたからと言う。言い換えれば、それは、聖書を読み、パンを割いた時でるあると、ミサを暗示している。ミサとは単にパンをいただいて天国の恵みに与ることではなく、イエスと出会い、ゆるされ、イエスから宣教へと派遣される、まさに、死から生命へのダイナミックな場であることを、今日の箇所は教えている。 |
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