ももちゃんの一分間説教



今週の一句
菜の花や 笑顔集まり 休耕田かな

―もとゐ―


 2020年3月1日(日)
 四旬節第1主日

 マタイによる福音書4章1節-11節

4,1 〔そのとき、〕イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
4,2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
4,3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
4,4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
4,5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
4,6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」
4,7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
4,8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
4,9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
4,10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
4,11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

 イエスはその運動に参加者を集め、どう生きるかを山上で語られた。モーセが出エジプトしたヘブライの民に神の言葉を語ったように。今日の箇所では、イエスが運動を始める前に、運動の方法論を決めたことが物語形式で表されている。著者は、イエスが十字架刑死後、原始キリスト教団が「神の子」と呼ばれたことから、イエスの生涯を振り返ったのであろう。

 さて、「荒れ野」の旅で、試みる者に対抗したイエスの拠り所は、堅さ、確かさ、岩、アーメンと呼ばれる「神」への深い信頼だ。これまた、出エジプトし荒野を旅するヘブライの民が頼ったモーセを仲介した神の言葉であったように。「だれもが大事にされる」荒れ野の旅に教会も神の言葉を深く学び、従って行こう。
今週の一句
目覚ましや 腕を伸ばせば 春ガラス

―もとゐ―


 2020年3月8日(日)
 四旬節第2主日

 マタイによる福音書17章1節-9節

17,1 〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
17,2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
17,3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
17,4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
17,5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
17,6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
17,7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
17,8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
17,9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

 イエスはいわゆる、『荒野の誘惑』物語において「神の国」運動の方針を定めた。つまり、世界が期待する「神の子性」の放棄、超人ではなく、神の言葉に堅く立ち、唯一の拠り所、指標として従うことを選んだ。

 しかし、イエスに呼ばれて運動に参加した弟子たちは、この世の価値観に縛られ、イエスをこの世の王、権力者、奇跡行為者と見なし、その恩恵に与ろうとしていたイエスの苦難の道を拒否した。イエスはペトロに言った。「サタンよ、引き下がれ」と。福音書を読んで来て、誘惑に弱い弟子たちへと同様、あらためて、神の言葉に忠実であるイエスの道を行けと勧められた。
今週の一句
大空や 両手広げて 白木蓮

―もとゐ―


 2020年3月15日(日)
 四旬節第3主日

 ヨハネによる福音書4章5節-42節

4,5 〔そのとき、イエスは、〕ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
4,6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
4,7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
4,8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
4,9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
4,10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
4,11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
4,12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
4,13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
4,14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
4,15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
4,16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
4,17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
4,18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
4,19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
4,20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4,21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4,22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
4,23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
4,24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
4,25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
4,26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
4,27 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。
4,28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
4,29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
4,30 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
4,31 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、
4,32 イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。
4,33 弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。
4,34 イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。
4,35 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、
4,36 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。
4,37 そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。
4,38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
4,39 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。
4,40 そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。
4,41 そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。
4,42 彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

 イエスの「神の国」運動は、「石をパンに変えない」ことを方針として始まった。つまり、物質に過度の依存をしないことだ。なぜなら、「神のことば」によって生きるとは、物質に対しては必要な分だけの賢明なコントロールすることだと、『出エジプトのマナの逸話』は教えている。

 ガリラヤの貧しい人たちは極度に飢えていた。そんな彼らの第一の救いは、まず、毎日食べられることだ。にもかかわらず、イエスがパンだけで人は生きるものではない、と精神論の説教をしただろうか。現に、イエスはその運動の合言葉を弟子たちに教えたが、それには「日毎のパンが与えられるように」とある。しかし、イエスがガリラヤの人たちに食糧配給し続けるには、それこそ、試みる者に頭を下げて全世界の富を分けて貰うしかないだろう。だから、神だけに従うイエスは「パンのみ」による救済をしなかった。イエスはパンが公平に分配される神の心の貫徹する状態にしたかった。

 それには、持っている者の良心に訴える、例えば、軍拡競争ではなく環境保全へと。すなわち、回心、神に従うことへと呼びかけ社会変革に進むしかなかった。けれど、それを座して待つだけでは、『ラザロと金持ち』の寓話のように餓死者は増える一方だ。だから、まず、イエスと弟子たちは自らも足りないパンを分け与え、エルサレムの支配者に訴えの旅に出たのであった。イエスたちにはジレンマだったろう。試みる者の「神の子なら」の誘いに揺らいだであろう。キリスト者は全知全能の神への信仰を考えなおさなければならない。

 同じく、今日のサマリアの井戸の物語では女性の水汲み労働の過酷さへのイエスの同情は水汲みの軽減をしてやりたかったのではないか。とっさに、「生きた水を与えよう」と口からでたのは女性故に課せられた家事労働に縛られ、奴隷のように働かされ、不自由を強いられた女性への深い共感だった。彼女の汲む水は汗と涙からの苦い水だ。イエスはそれを生きた清水、命を与える水にかえたかったのだ。もちろん、イエスにそんな力はなく、水の供給はできない、ただ、神の言葉の供給しかない。では、女性の重労働を軽減するには、女性を不平等にする社会の仕組みを見て、神の思いの実現へと変えなければならない。「霊と心理の礼拝」とは、神の思いが天に行われるように地にも行われる、ことだ。パンや水が公平に分配され、だれもが置き去りにされない状態へみんなで変換して行く過程がイエスの運動なのだ。
今週の一句
新感染症 自粛強いられ 四旬節

―もとゐ―


 2020年3月22日(日)
 四旬節第4主日

 ヨハネによる福音書9章1-41節

9,1 〔そのとき、〕イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
9,2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
9,3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
9,4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
9,5 わたしは、世にいる間、世の光である。」
9,6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
9,7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
9,8 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
9,9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
9,10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、
9,11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
9,12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
9,13 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。
9,14 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。
9,15 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」
9,16 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。
9,17 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
9,18 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、
9,19 尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」
9,20 両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。
9,21 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」
9,22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。
9,23 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
9,24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」
9,25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
9,26 すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」
9,27 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」
9,28 そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。
9,29 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」
9,30 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。
9,31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。
9,32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。
9,33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
9,34 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
9,35 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
9,36 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
9,37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
9,38 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、
9,39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
9,40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
9,41 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

 この世界は弱肉強食だ。強い者・富める者が優遇される社会となっている。イエス時代のユダヤでは強者富者がユダヤ教指導者であり、弱者、即ち、貧者、病者、外国人は「罪人」と呼ばれ、差別・搾取が宗教的に正当化されていた。そのため、後者は極度な苦難のなかに生きていた。

 悲惨なガリラヤの人々にこころ痛めたイエスはヤーウエ神の思いに立ち返り、「誰もが大事にされる」神の国運動を始めた。その際、イエスは「強者」ではなく神の言葉だけを頼りにする「こころ貧しい者」となることを運動方針とした。飢えた人たちには、必要なパンが与えられるよう、ユダヤ教指導者に「神の言葉」に戻るよう呼びかけた。

 サマリアではユダヤ人からの差別や重労働で疲労困憊していた女性の荷(苦い水)を軽くしようと永遠の命、つまり、「いつも明るく生き生きとする力『生きた水』」に変えることに立ち上がり、社会、男性の変革を汲む提案した。エルサレムでは、イエスの出会った目の見えないため乞食としか生きられない男を立ち上がらせるために、彼を押しつぶしているユダヤ教指導者の目を覚まそうとした。

 しかし、指導者たちの頑迷固陋は一層深まり、逆に、イエスを神を冒涜する者とし迫害し始めた。元来、ユダヤの先祖たちは奴隷であったにもかかわらず、神ヤーウエが目を掛けられた(言葉を与えられた)故に、立ち上がり、今の恵まれた境遇を得たことを忘れ、他者を奴隷にしてしまった。その神への背反をイエスは指摘したのに。
 
今週の一句
風烈し 凛と立ち向かう 白水仙

―もとゐ―


 2020年3月29日(日)
 四旬節第5主日

 ヨハネによる福音書11章1-45節

11,1 〔そのとき、〕ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。
11,2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
11,3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
11,4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
11,5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
11,6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
11,7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
11,8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。
11,9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。
11,10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」
11,11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
11,12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。
11,13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。
11,14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。
11,15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」
11,16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
11,17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
11,18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。
11,19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
11,20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
11,21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
11,22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
11,23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
11,24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
11,25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
11,26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
11,27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
11,28 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。
11,29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。
11,30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
11,31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。
11,32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
11,33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
11.34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
11,35 イエスは涙を流された。
11,36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
11,37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
11,38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
11,39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
11,40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
11,41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
11,42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
11,43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
11,44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
11,45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた

 人生は四苦だ、と言ったのはお釈迦さまだ。それは、聖書の世界でも同じ、詩編23のように「死の陰を歩む」のが人生、だから、神のことばに従って行くよう招いている。さて、イエスの出会った人々はそれぞれ重荷を負わされ、苦難に喘いでいた。イエスはこころ痛め、寄り添った。

 今日の箇所では、人の「死」に直面した苦しみだ。人には「死」の限界があることは当たり前だ、しかし、それを受け入れることは容易ではない。だからこそ、人は「不老不死」を手に入れようと奔走する。宗教にすがることもその一つだ。旧約聖書には来世の言及はない、ただし、ギリシャ思想の「霊魂不滅」観の影響後、復活思想が生まれ知恵文学や黙示文学には表れて来た。イエス時代には終わりの日の復活への信仰は浸透していた。マリアやマルタのイエスへの期待は「神の子」イエスであるなら、ラザロを死なせなかったはず、と言うことから分かる。けれど、イエスはそんな「蘇生」と言う通俗的迷信に応えるであろうか。もちろん、姉妹の弟喪失への悲しみに寄り添いたいと思っただろうが、「蘇らせる」との姉妹の安易な願望に答えたのか。

 人は必ず死に、愛する人と別れねばならないとの「苦しみ」をどう受け留めるのが大問題なのだけれど、姉妹の死の苦しみへの寄り添いを「蘇生」にしては安直過ぎると言えまいか。まさに、「石をパンに変えろ」の誘惑に負けたのではないか。残念ながら、今日の箇所を読む限りは「そうだ。」としか言えない。ヨハネ福音書の著者は、そんな通俗的なイエスを書いて、読む者に信じろと言っているのか。それでは、彼の福音執筆の目的である「見ないで信じる者は幸い」に矛盾する。ヨハネ福音書の著者も、「死」に直面した人との寄り添いには混乱している。


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