|
2020年2月2日(日) 主の奉献 ルカによる福音書2章22節-40節
今日の箇所は律法に従って(出エジプト13章)両親が、イエスを奉献するためエルサレムへ上った。その神殿でイエスの到来を待ちわびていた高齢の預言者二人に会い、その二人からイエスが「万民の救い」、「異邦人を照らす光」と示された話。ルカはここにおいて、イエスが何者であるかを旧約聖書に預言されている方だと教えているのだ。 既に、誕生物語でも『生まれる子は聖なる者、神の子』と天使ガブリエルはマリアに告げ、ベツレヘムでの誕生にあたっては、野宿で番をしていた羊飼いには「あなたがたの救い主」と天使から告げられている。 つまり、ルカはイエスのエルサレムへの宣教の旅が何であったかを、言わば、プロローグ(序幕、ルカ1,2章)にまとめたのだ。イエスの旅は、羊飼いらの友、救いを待ち望む人たちの光、神の子としての旅である、と。そして、神への「奉献」、つまり、イエスの生涯は母アンアからサムエルが献げられた(「主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」)(参照 サムエル上1~3章)ように神に献げられた生涯であったとルカは言いたいのではないか。 |
2020年2月9日(日) 年間第5主日 マタイによる福音書5章13節-16節
イエスの宣教を今回からイエス運動と呼ぶ。何故なら、イエスはキリスト教を宣べ伝えたのではなく、ガリラヤの人たちが神から大事にされている、即ち、命と人権の回復運動を始めたのだから。 さて、イエスはその運動の参加へ人を呼び出された。「あなたがたを人間の漁師にしてあげよう。」(田川訳)人を「呼び出す」ことは聖書の神と人との関係を表す特徴だ。それは神が人に声をかけ、人がそれに応え、神と約束を交わす「契約」の関係だ。例えば、ヘブライの民、アブラハム、モーセ、士師、預言者たち、ヨゼフ、マリア、弟子たち、等々を呼び出し、神の働きに参加するよう招かれ、彼・彼女たちは「はい」と応え、従ったのであった。 その際、神の呼び掛けは苛酷だ。アブラハムには父の家を出ろ、モーセにはファラオと交渉してヘブライの民を連れ出せ、士師には侵略軍との戦いのリーダーになれ、ヨゼフ・マリアにはメシアの親になれ、etc. いずれも、安定した現状を捨て、未知なる不安定な境遇へ、言い換えれば、既存の世界・価値から全く新しい価値・世界へ飛び込めとの招きだ。出エジプトの物語では奴隷から自律へ、不平等から平等への旅として描かれている。 神の呼び掛けとは、人が最終権威とする価値への招きのこと。人はだれ一人大事にされる、ことを最終権威として選び認め、その実現に賭ける生き方をして、応えることこそを選ぶことへの招きだ。それは、出エジプトの旅のように、また、イエスの運動のように、苦難、十字架の道だ。しかし、それでも、イエスはガリラヤの人たちの悲しみ、苦しみを見過ごすことはできなかった。イエスはキリスト者に呼びかける、「地の塩、世の光」になれと、暗闇に置き去りにされている者たちの灯になれと。「真福八端」はそのための指針となる。 |
2020年2月16日(日) 年間第6主日 マタイによる福音書5章13節-16節
イエスは彼の運動にガリラヤ湖の漁師であったペテロたちに声をかけた。集まってきた彼らに運動の目的、指針を語った。モーセが出エジプトの民に荒野の旅の歩き方、即ち、神からの言葉としての生き方、生活の仕方を示したように。 まず、イエスは弟子たちを「霊において貧しい者」と呼び、とことん神を信頼して、基づいて、揺るぎなく神に応える、つまり、契約に生きるよう招いた。 次に、神への固い信頼に生きることを「地の塩」「世の光」と言い換えている。何故なら、イエス運動はガリラヤの人たちが幸いになること、つまり、「誰もが大事にされる」との神のみ心を地上に実現することであるから、そのためには神の言葉に従うこと、塩味でありそれに生きること、光になることに他ならない。 さらに、神の言葉に生きるとは「柔和に生きる」こと、つまり、神と他者の前で誇るのではなく、ゆるしと憐れみをいただいてしか生きられない自己を発見して、へりくだって生きることだとイエスは目を開かせる。弟子への道は崇高で険しい、しかし、神への確かな信頼に足をつけ、憐れみとゆるしを願いつつ歩むなら、前へ進めるとイエスは励ますのだ。 |
2020年2月23日(日) 年間第7主日 マタイによる福音書5章38節-48節
イエスは自身の運動へ人々を呼ばれた。イエスの言動に魅力を感じて集まって来た人々を前に、今から始まる運動の目標を語った。ガリラヤの貧しい人々が「永遠の命」つまり、いつでも明るく活き活きと生きられる(山浦訳)ようになることであった。 何故なら、神ヤーウエの遺志は「だれもが大事にされる」ことであったから、イエスは不当に扱われているガリラヤの人々を前に、そうなるよう生きることを決意したのだ。その運動へ人たちを招かれた。ガリラヤの人々の苦難は重税と律法、即ち、政治・経済・宗教体制から来ていたので、まず、イエスはユダヤ人の基本的生き方である神との契約。律法に従う生き方を真福八端で示された。それは、神が「聖」であるから人も「聖」になるよう招かれたのだ(レビ記19章)。 「聖」とは神がヘブライの民を導き、土地と生活を与えられたことへの感謝として神に応えることなのだ。古代オリエントの世界では人は絶対君主である王の奴隷として服従する限りでしか生命と暮らしを与えられる不平等の世界であった。に比べ、ヤーウエ神は無償で与えられたのだと、難民として排除されていたヘブライの人々は確信した。従って、ヘブライの彼らは弱い立場の人たち、寄留者、孤児、寡婦への配慮を神の律法として守り、誰もが大事にされる社会を創ることを神への応答「聖」であると神と契約したのだ。それ故、律法遵守は第一に神の恵みを得たことへの応答であり、イエス時代のユダヤ教指導者たちの偏った解釈の自己を誇り、他者と競い、裁くためではない。 イエスは言う、そもそも、律法、即ち、生き方の指針は自己の弱さを知り、互いに、認め合い、ゆるし合い、助け合って高邁な理想を実現するためにある、と。「心の中で兄弟を憎んではならない。…自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19、17-18)ましてや、「敵を愛せよ」とのイエスの勧めはイエス運動の目標であり究極の課題だ。しかし、神と契約した人が生涯の目標、課題としてイエス運動について行くよう呼ばれている。 |
|