ももちゃんの一分間説教



今週の一句
雨の朝 万物潤す 大晦日

―もとゐ―


 2020年1月1日(土)
 神の母聖マリア

 ルカによる福音書2章16節-21節

2,16 〔そのとき、羊飼いたちは〕そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2,17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2,18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2,19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2,20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
2,21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 母マリアは訪れた羊飼いの話しを「思い巡らした」。たぶん、マリアは十字架上で惨殺されたイエスを胸に抱きかかえながら、十字架に至るイエスの旅をも思い巡らしただろう。ユダヤ教徒が「出エジプト」に自らのアイデンティティーを求めたように、キリスト教はまさにイエスを「思い巡らし」、今、何を為すべきか、何処へ行くべきかを導き、その旅を歩むことではないか。現代世界の狂気のなか、イエスを先頭に「弱い立場の人たち」とまともな世界を築くことに呼ばれている。 
今週の一句
朝寝坊 テレビで拝む 初日の出

―もとゐ―


 2020年1月5日(日)
 主の公現

 マタイによる福音書2章1節-12節

2,1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2,2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2,3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2,4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2,5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2,6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2,7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2,8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2,9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2,10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2,11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2,12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 ユダヤ教では、国家滅亡後、再興にあってはダビデ王の子孫からメシア(救い主)が現れ王として支配するとの期待、いわゆる、ダビデイデオロギーと呼ばれるものがある。マタイはそれに従い、イエスをダビデの子孫として福音書に描いている。更に、イエスはユダヤだけの王ではなく、東方の賢者たちの来訪により、世界の「王」であると言う。

 しかし、それは、イエスの誕生、登場は既得権力、支配体制からは排除、弾圧されることは必然であった。「暗闇に住む民は大きな光を見た」とはイエスが「王」となり、全世界の支配者としてすべての問題を一挙に解決する、と言うのではなく、からし種のような微かな光が絶えることなく灯され続いて行くとの確信をイエスが示したことではないだろうか。
今週の一句
初夢や 猫まるくなり 縁側かな

 2020年1月12日(日)
 主の洗礼

 マタイによる福音書3章13節-17節

3,13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
3,14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
3,15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
3,16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
3,17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

 クリスマス物語で、イエスは小さくされた者と共にいる方、暗闇のなかの大きな光、ヘロデとは対照的な全世界の「王」であると告げられている。今日の洗礼の場面では、詩編の『王の即位式』を使って イエスは「神の子」と宣言されている。

 さて、洗礼は死と再生の儀式だ。洗礼者ヨハネは「悔い改めに至る」と意味づけし、神への背信から従順の約束へと回心の徴と言う。創世記によれば、神は土塊であった人に「命の息」を吹き入れたので、人は生きる、つまり、神に従うことによってだけ「生きる」ものとなったのだ。しかし、イエス時代のユダヤ教ではガリラヤの小さい人々を排除し見棄てていた。その現状に、心痛めたイエスは神「神の前では誰もが平等だ」に忠実であろうと、神の言葉を聴き従うために、今までの自分に死に新生を得た、即ち、洗礼を受けたのだ。イエスは生まれ変わり、神に従う「神の子」となった。
今週の一句
振袖や 風に煽られ 成人式

―もとゐ―


 2020年1月19日(日)
 年間第2主日

 ヨハネによる福音書1章29節-34節

1,29 〔そのとき、〕ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
1,30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
1,31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
1,32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
1,33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
1,34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 イエスの洗礼をマタイ福音書では「神の子」に就任し、キリスト者が従うイエスは「神の子」であると述べられた。

 さて、今日のヨハネでは、イエスが「神の子羊、世の罪を取り除く」方であると洗礼者ヨハネの告白の場面としてイエスの洗礼を描いている。「子羊」とはユダヤ人では誰もが知っている、出エジプトの際、神の「過ぎ越し」においてその血がヘブライの民を救ったとされた犠牲の小羊のこと(出エ12章)を連想させる。ヨハネはイエスの十字架刑死をその「子羊」だとみなし、と言うのは、イエスの十字架刑死を、出エジプトの故事にならい、過越しの準備の日に子羊を屠ったとしている(ヨ福19・14)ことから。つまり、ヨハネはイエスが神から背反した人々を神に立ち返らせる(世の罪を取り除く)犠牲の「神の子=子羊」であると言うのだ。ヨハネの他の言葉からも同様に考えられる(神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハ福3・16)イエスを人を救うため、神へ立ち返るために犠牲にされた、との考えを今日的に言い直すなら、イエスは神の示された真理に生きる模範を生死を賭けて示されたと、確証する人の人生は「いつでも明るく活き活きと生きる力を与え」(『永遠の命』の山浦訳、「ガリラヤのイエシュー」)られる、になるのではないか。
今週の一句
下弦の月 闇夜に懸かり 大寒かな

―もとゐ―


 2020年1月26日(日)
 年間第3主日

 マタイによる福音書4章12節-23節

4,12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
4,13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
4,14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
4,15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、
4,16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
4,17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
4,18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
4,19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
4,20 二人はすぐに網を捨てて従った。
4,21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。
4,22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
4,23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

 福音書は読者をイエスの宣教旅行に帯同するよう招く。例えば、マルコでは弟子たちがイエスに再会するため、ガリラヤへ行けと告げられている。

   イエスは宣教をガリラヤで始められ、その仲間を集められた。ガリラヤは「闇、死の地域、死の陰」と呼ばれているように、人々は幾重もの苦難に圧し潰されていた。けれど、政治も宗教も彼らを救うどころか、ますます、苦しめ見捨てていた。彼・彼女の叫び声に心痛めたイエスは、神の国の告知、すなわち、あなた方は大事にされていると身をもって証しする運動を始められ、そして、その運動に参加する者が出て来たのだ。その描写は旧約聖書の神から呼ばれた人たち、例、アブラハム、モーセ、サムエルの物語をなぞられている。

 今日のイエスと出会い旅を体験する場を教えている。


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