|
2020年1月1日(土) 神の母聖マリア ルカによる福音書2章16節-21節
母マリアは訪れた羊飼いの話しを「思い巡らした」。たぶん、マリアは十字架上で惨殺されたイエスを胸に抱きかかえながら、十字架に至るイエスの旅をも思い巡らしただろう。ユダヤ教徒が「出エジプト」に自らのアイデンティティーを求めたように、キリスト教はまさにイエスを「思い巡らし」、今、何を為すべきか、何処へ行くべきかを導き、その旅を歩むことではないか。現代世界の狂気のなか、イエスを先頭に「弱い立場の人たち」とまともな世界を築くことに呼ばれている。 |
2020年1月5日(日) 主の公現 マタイによる福音書2章1節-12節
ユダヤ教では、国家滅亡後、再興にあってはダビデ王の子孫からメシア(救い主)が現れ王として支配するとの期待、いわゆる、ダビデイデオロギーと呼ばれるものがある。マタイはそれに従い、イエスをダビデの子孫として福音書に描いている。更に、イエスはユダヤだけの王ではなく、東方の賢者たちの来訪により、世界の「王」であると言う。 しかし、それは、イエスの誕生、登場は既得権力、支配体制からは排除、弾圧されることは必然であった。「暗闇に住む民は大きな光を見た」とはイエスが「王」となり、全世界の支配者としてすべての問題を一挙に解決する、と言うのではなく、からし種のような微かな光が絶えることなく灯され続いて行くとの確信をイエスが示したことではないだろうか。 |
2020年1月12日(日) 主の洗礼 マタイによる福音書3章13節-17節
クリスマス物語で、イエスは小さくされた者と共にいる方、暗闇のなかの大きな光、ヘロデとは対照的な全世界の「王」であると告げられている。今日の洗礼の場面では、詩編の『王の即位式』を使って イエスは「神の子」と宣言されている。 さて、洗礼は死と再生の儀式だ。洗礼者ヨハネは「悔い改めに至る」と意味づけし、神への背信から従順の約束へと回心の徴と言う。創世記によれば、神は土塊であった人に「命の息」を吹き入れたので、人は生きる、つまり、神に従うことによってだけ「生きる」ものとなったのだ。しかし、イエス時代のユダヤ教ではガリラヤの小さい人々を排除し見棄てていた。その現状に、心痛めたイエスは神「神の前では誰もが平等だ」に忠実であろうと、神の言葉を聴き従うために、今までの自分に死に新生を得た、即ち、洗礼を受けたのだ。イエスは生まれ変わり、神に従う「神の子」となった。 |
2020年1月19日(日) 年間第2主日 ヨハネによる福音書1章29節-34節
イエスの洗礼をマタイ福音書では「神の子」に就任し、キリスト者が従うイエスは「神の子」であると述べられた。 さて、今日のヨハネでは、イエスが「神の子羊、世の罪を取り除く」方であると洗礼者ヨハネの告白の場面としてイエスの洗礼を描いている。「子羊」とはユダヤ人では誰もが知っている、出エジプトの際、神の「過ぎ越し」においてその血がヘブライの民を救ったとされた犠牲の小羊のこと(出エ12章)を連想させる。ヨハネはイエスの十字架刑死をその「子羊」だとみなし、と言うのは、イエスの十字架刑死を、出エジプトの故事にならい、過越しの準備の日に子羊を屠ったとしている(ヨ福19・14)ことから。つまり、ヨハネはイエスが神から背反した人々を神に立ち返らせる(世の罪を取り除く)犠牲の「神の子=子羊」であると言うのだ。ヨハネの他の言葉からも同様に考えられる(神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハ福3・16)イエスを人を救うため、神へ立ち返るために犠牲にされた、との考えを今日的に言い直すなら、イエスは神の示された真理に生きる模範を生死を賭けて示されたと、確証する人の人生は「いつでも明るく活き活きと生きる力を与え」(『永遠の命』の山浦訳、「ガリラヤのイエシュー」)られる、になるのではないか。 |
2020年1月26日(日) 年間第3主日 マタイによる福音書4章12節-23節
福音書は読者をイエスの宣教旅行に帯同するよう招く。例えば、マルコでは弟子たちがイエスに再会するため、ガリラヤへ行けと告げられている。 イエスは宣教をガリラヤで始められ、その仲間を集められた。ガリラヤは「闇、死の地域、死の陰」と呼ばれているように、人々は幾重もの苦難に圧し潰されていた。けれど、政治も宗教も彼らを救うどころか、ますます、苦しめ見捨てていた。彼・彼女の叫び声に心痛めたイエスは、神の国の告知、すなわち、あなた方は大事にされていると身をもって証しする運動を始められ、そして、その運動に参加する者が出て来たのだ。その描写は旧約聖書の神から呼ばれた人たち、例、アブラハム、モーセ、サムエルの物語をなぞられている。 今日のイエスと出会い旅を体験する場を教えている。 |
|