|
2019年12月1日(日) 待降節第1主日 マタイによる福音書24章37節-44節
時の徴を見極め、目を覚まして立ち上がれとイエスは勧める。疲弊したガリラヤの貧しい人たちを前にして、エジプトの奴隷だった人々の叫び声を聞き、解放されたように神はほっておかない、必ず、行動されるとの神への信頼から、イエスは立ち上がり、ガリラヤの人々の中へ入って行き、幸い、貧しい者、神はあなたと共にいる、と手を伸ばし、パンを分け、重荷を背負い合った。 核戦争の脅威、自然災害の猛威、経済格差による飢え、病気、貧困の増加、等。予兆はいくらでも表れている。それらを敏感にキャッチし、危機感を持って人、生物、自然の命を守ることのできるのは、人間しかいないけれど、人は経済利益の追求を選択している。神を最終権威とし、命、人権を守り尊重することを神と契約するキリスト者は、それに声を挙げ、苦難を強いられた人々と共に、必ず、「神の支配」が到来するよう前へ進もう。 |
2019年12月8日(日) 待降節第2主日 マタイによる福音書3章1節-12節
終末の神の怒りから免れるように、目を覚まし、準備せよ、との声から待降節が始まった。 今日の聖書では、その準備を洗礼者ヨハネの洗礼を受けることだと言っている。そして、洗礼を受けるとは祭儀的、形式的にではなく、実を結べと具体的働きをしろと言及している。(ルカ福音書では具体的実をはっきり示されている。ルカ3・10-14) 元来、神との契約は、「信じます」ではなく、神の言葉は真理であるが故に、最終権威として従い生きることを意味する。イエスはその神の言葉に従い生きた。つまり、抑圧され苦難に生きるガリラヤの貧しい人々が大事にされるよう働かれた。洗礼は実を結ばせるのだ。 |
2019年12月15日(日) 待降節第3主日 マタイによる福音書11章2節-11節
洗礼者ヨハネの叫び「罪のゆるしに至る悔い改めの洗礼を受けよ」は、当時の大祭司はじめユダヤ教指導者たちに発せられた。と言うのは、ローマ帝国の圧政下にもかかわらず、彼らは保身第一に現状維持に汲々として、貧しい人々を顧みることなくむしろ放置し、彼らを困窮、苦難の極みに陥れていたからだ。(「それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。」 エゼキエル34,7-9) それは、神との契約、即ち、「聖となれ」、「隣人を自分と同じように大事にしろ」(参照レビ19,1-18)との約束を破り、神に背反していたからだ。指導者たちが神に立ち帰らなければ、神が必ずメシアを遣わし、準備させ、新しい天と地をもたらすと苦難の内に呻吟している人々の神への確たる信頼であった。 しかし、そのヨハネの叫びはヘロデ王や支配者たちから抹殺された。他方、イエスは支配者たちに回心を叫ぶのではなく、苦難を負わされたガリラヤの貧しい人たちの中に入り、苦難を軽くするために働かれた。そのイエスの姿にガリラヤの人たちは、来るべき「新しい天と地」、即ち、「神の支配」の実現を見たのだ。(「そして私は新しい天と地を見た。…神は彼らと共に住み、彼らは神の民となり、神ご自身が彼らと共にある。そして神は人間たちの顔からすべての涙をぬぐい去ってくださる。そしてもはや死は存在せず、嘆きも、叫びも、苦痛もない。以前のものは過ぎ去ったのだ。」ヨハネ黙示録21,1-4)しかし、そのイエスもやがて現状維持する支配者たちから社会秩序を乱す者として処刑されるのであった。 |
2019年12月22日(日) 待降節第4主日 マタイによる福音書1章18節-24節
苦難を負わされたガリラヤの貧しい人々と共にいるイエスの地道な姿に、神が「新しい天と地」を人知、常識を超えてもたらしたと福音書は言う。そのイエスの誕生をスキャンダラスな出来事と報じ、まさに、そこにこそ神の働きと貧しい人との協働があったと、マタイによるイエスの誕生物語は記す。 まず、冒頭のイエスに至るアブラハムからの系図には著名な男性だけの名前ではなく、隠しておくべきスキャンダルな女性、社会からは認められない、「遊女」、「外国人」の女性4人の名前を連ねている。次に、多くは父から子が生まれ(共同訳 もうけ)、あるいは。女性によって子が生まれとされているが、イエスだけはヨゼフからとはなく、マリアから生まれたと記している。と言うことは、イエスの父はヨゼフではないのだ。その経緯を1・18から描いている、つまり、マリアはヨゼフといっしょになる前に身ごもったと言う。それは、ユダヤ教で死罪に当たる律法違反のスキャンダルがマリアの身に起こったということなのだ。しかし、マタイはそれを神の息吹、聖霊の働きだと言う。さらに、ヨゼフはそのマリアを告発しなかった、つまり、律法に適った判断をせず、苦難にあったマリアの立場に立ったのだ。これまた、スキャンダルだ。しかし、マタイはこれまたその律法違反者ヨセフを「義人」と呼ぶのは、神に従うとは形式的に律法を守ることではなく(例 ヨハネ8・1-11)、苦難にある人に寄り添い大事にすることと言いたいのではないか。 これらのことからイエス誕生物語は、ユダヤ教社会からスキャンダルと非難されることであり、「ナザレから何か良い者がでるだろうか(ヨハネ1・46)」と流布されている常識、正統信仰から逸脱していることなのだ。しかし、神は世間から捨てられた苦難の人々、ヨセフ、マリア、イエスの共にkおられ、働かれ「新しい天と地」をもたらされる、とマタイは教えるのだ。 |
2019年12月25日(日) 主の降誕(夜半) ルカによる福音書2章1節-14節
イエスはガリラヤの虐げられた人々の中におられ、彼・彼女らの人生ガ幸いになるよう彼・彼女らと共に働かれた。ルカによるイエス誕生物語はそのイエスの生涯を象徴しているかのようだ。生まれたばかりのイエスの周りに居る人たちとは、田舎の貧しいヨゼフ、マリアの両親、同様な強制的にベトレヘムへ旅させられた老若男女たち、野宿して羊の世話をする雇われ羊飼いたち、いずれも、国や支配者、宗教指導者たちから、人権を奪われ奴隷のように扱われている人たちだ。国や雇い主、宗教に役立つかぎり、最低限に生かされるが、役立たなくなったとき、捨てられ見殺しにされるのだった。イエスが彼彼女らの「救い主」として生まれたと言うならば、マリアが歌うように、神はそこにこそ居られ、留まられ、働かれるのだ、と言うのだろう。決して、サンピエトロ寺院には生まれないし、いないのだ。
|
2019年12月29日(日) 聖家族 マタイによる福音書2章13節-15節、19節-23節
ヨハネ福音書ではイエスを神の「ことば」、つまり、生き方の指針として受け入れ、従う人は「神の子」と呼ばれる、と言う。更に、神によって生まれたゆえに「神の子」である、とも言う。(しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。(ヨハネ1,12・13)それは、ユダヤ人がモーセを通して与えられた神の言葉を守ると契約し、それに忠実であることによって「神の子」となるとの考えと同じだ。ただし、ヨハネでは呼びかける対象はユダヤ人以外にも広がっている点が異なる。ヨゼフ、マリア。イエスを「聖家族」と教会が呼ぶのは、「神のことば」を聴き、探求し、生き、そして、神を賛美するからではないだろうか。今日の福音はそれを示唆している。 |
|