ももちゃんの一分間説教



今週の一句
紅葉谷 戻る賑わい 無人駅

―もとゐ―


 2019年12月1日(日)
 待降節第1主日

 マタイによる福音書24章37節-44節

24,37 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
24,38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
24,39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
24,40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
24,41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
24,42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
24,43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
24,44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

 時の徴を見極め、目を覚まして立ち上がれとイエスは勧める。疲弊したガリラヤの貧しい人たちを前にして、エジプトの奴隷だった人々の叫び声を聞き、解放されたように神はほっておかない、必ず、行動されるとの神への信頼から、イエスは立ち上がり、ガリラヤの人々の中へ入って行き、幸い、貧しい者、神はあなたと共にいる、と手を伸ばし、パンを分け、重荷を背負い合った。

 核戦争の脅威、自然災害の猛威、経済格差による飢え、病気、貧困の増加、等。予兆はいくらでも表れている。それらを敏感にキャッチし、危機感を持って人、生物、自然の命を守ることのできるのは、人間しかいないけれど、人は経済利益の追求を選択している。神を最終権威とし、命、人権を守り尊重することを神と契約するキリスト者は、それに声を挙げ、苦難を強いられた人々と共に、必ず、「神の支配」が到来するよう前へ進もう。
今週の一句
杖と傘 肌着の滲みる 時雨かな

―もとゐ―


 2019年12月8日(日)
 待降節第2主日

 マタイによる福音書3章1節-12節

3,1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
3,2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
3,3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
3,4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
3,5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、
3,6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
3,7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
3,8 悔い改めにふさわしい実を結べ。
3,9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
3,10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
3,11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
3,12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

 終末の神の怒りから免れるように、目を覚まし、準備せよ、との声から待降節が始まった。

 今日の聖書では、その準備を洗礼者ヨハネの洗礼を受けることだと言っている。そして、洗礼を受けるとは祭儀的、形式的にではなく、実を結べと具体的働きをしろと言及している。(ルカ福音書では具体的実をはっきり示されている。ルカ3・10-14)

 元来、神との契約は、「信じます」ではなく、神の言葉は真理であるが故に、最終権威として従い生きることを意味する。イエスはその神の言葉に従い生きた。つまり、抑圧され苦難に生きるガリラヤの貧しい人々が大事にされるよう働かれた。洗礼は実を結ばせるのだ。
今週の一句
寒き朝 腕を枕の 猫重き

―もとゐ―


 2019年12月15日(日)
 待降節第3主日

 マタイによる福音書11章2節-11節

11,2 〔そのとき、〕ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、
11,3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
11,4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
11,5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
11,6 わたしにつまずかない人は幸いである。」
11,7 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。
11,8 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
11,9 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
11,10 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。
11,11 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

 洗礼者ヨハネの叫び「罪のゆるしに至る悔い改めの洗礼を受けよ」は、当時の大祭司はじめユダヤ教指導者たちに発せられた。と言うのは、ローマ帝国の圧政下にもかかわらず、彼らは保身第一に現状維持に汲々として、貧しい人々を顧みることなくむしろ放置し、彼らを困窮、苦難の極みに陥れていたからだ。(「それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。」 エゼキエル34,7-9)

 それは、神との契約、即ち、「聖となれ」、「隣人を自分と同じように大事にしろ」(参照レビ19,1-18)との約束を破り、神に背反していたからだ。指導者たちが神に立ち帰らなければ、神が必ずメシアを遣わし、準備させ、新しい天と地をもたらすと苦難の内に呻吟している人々の神への確たる信頼であった。

 しかし、そのヨハネの叫びはヘロデ王や支配者たちから抹殺された。他方、イエスは支配者たちに回心を叫ぶのではなく、苦難を負わされたガリラヤの貧しい人たちの中に入り、苦難を軽くするために働かれた。そのイエスの姿にガリラヤの人たちは、来るべき「新しい天と地」、即ち、「神の支配」の実現を見たのだ。(「そして私は新しい天と地を見た。…神は彼らと共に住み、彼らは神の民となり、神ご自身が彼らと共にある。そして神は人間たちの顔からすべての涙をぬぐい去ってくださる。そしてもはや死は存在せず、嘆きも、叫びも、苦痛もない。以前のものは過ぎ去ったのだ。」ヨハネ黙示録21,1-4)しかし、そのイエスもやがて現状維持する支配者たちから社会秩序を乱す者として処刑されるのであった。  
今週の一句
火祭りの 灯籠灯る 年の暮れ

―もとゐ―


 2019年12月22日(日)
 待降節第4主日

 マタイによる福音書1章18節-24節

1,18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
1,19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
1,20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
1,21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
1,22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1,23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
1,24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ〔た。〕

 苦難を負わされたガリラヤの貧しい人々と共にいるイエスの地道な姿に、神が「新しい天と地」を人知、常識を超えてもたらしたと福音書は言う。そのイエスの誕生をスキャンダラスな出来事と報じ、まさに、そこにこそ神の働きと貧しい人との協働があったと、マタイによるイエスの誕生物語は記す。

 まず、冒頭のイエスに至るアブラハムからの系図には著名な男性だけの名前ではなく、隠しておくべきスキャンダルな女性、社会からは認められない、「遊女」、「外国人」の女性4人の名前を連ねている。次に、多くは父から子が生まれ(共同訳 もうけ)、あるいは。女性によって子が生まれとされているが、イエスだけはヨゼフからとはなく、マリアから生まれたと記している。と言うことは、イエスの父はヨゼフではないのだ。その経緯を1・18から描いている、つまり、マリアはヨゼフといっしょになる前に身ごもったと言う。それは、ユダヤ教で死罪に当たる律法違反のスキャンダルがマリアの身に起こったということなのだ。しかし、マタイはそれを神の息吹、聖霊の働きだと言う。さらに、ヨゼフはそのマリアを告発しなかった、つまり、律法に適った判断をせず、苦難にあったマリアの立場に立ったのだ。これまた、スキャンダルだ。しかし、マタイはこれまたその律法違反者ヨセフを「義人」と呼ぶのは、神に従うとは形式的に律法を守ることではなく(例 ヨハネ8・1-11)、苦難にある人に寄り添い大事にすることと言いたいのではないか。

 これらのことからイエス誕生物語は、ユダヤ教社会からスキャンダルと非難されることであり、「ナザレから何か良い者がでるだろうか(ヨハネ1・46)」と流布されている常識、正統信仰から逸脱していることなのだ。しかし、神は世間から捨てられた苦難の人々、ヨセフ、マリア、イエスの共にkおられ、働かれ「新しい天と地」をもたらされる、とマタイは教えるのだ。
今週の一句
裸木や 大地を包む 黄毛布かな

―もとゐ―


 2019年12月25日(日)
 主の降誕(夜半)

 ルカによる福音書2章1節-14節

2,1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2,2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2,3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2,4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2,5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2,6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2,7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
2,8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2,9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2,10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2,11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2,12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2,13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2,14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

 イエスはガリラヤの虐げられた人々の中におられ、彼・彼女らの人生ガ幸いになるよう彼・彼女らと共に働かれた。ルカによるイエス誕生物語はそのイエスの生涯を象徴しているかのようだ。生まれたばかりのイエスの周りに居る人たちとは、田舎の貧しいヨゼフ、マリアの両親、同様な強制的にベトレヘムへ旅させられた老若男女たち、野宿して羊の世話をする雇われ羊飼いたち、いずれも、国や支配者、宗教指導者たちから、人権を奪われ奴隷のように扱われている人たちだ。国や雇い主、宗教に役立つかぎり、最低限に生かされるが、役立たなくなったとき、捨てられ見殺しにされるのだった。イエスが彼彼女らの「救い主」として生まれたと言うならば、マリアが歌うように、神はそこにこそ居られ、留まられ、働かれるのだ、と言うのだろう。決して、サンピエトロ寺院には生まれないし、いないのだ。

わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも
  目を留めてくださったからです。
 今から後、いつの世の人も
  わたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、
  わたしに偉大なことをなさいましたから。
 その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
 主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
 思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
 身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
 富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、
 憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。
(新共同訳 ルカ1・46-55)


今週の一句
むさ苦し 聖夜こそはと 髪を切り

―もとゐ―


 2019年12月29日(日)
 聖家族

 マタイによる福音書2章13節-15節、19節-23節

2,13 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
2,14 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、
2,15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
2,19 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、
2,20 言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」
2,21 そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。
2,22 しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、
2,23 ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

 ヨハネ福音書ではイエスを神の「ことば」、つまり、生き方の指針として受け入れ、従う人は「神の子」と呼ばれる、と言う。更に、神によって生まれたゆえに「神の子」である、とも言う。(しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。(ヨハネ1,12・13)それは、ユダヤ人がモーセを通して与えられた神の言葉を守ると契約し、それに忠実であることによって「神の子」となるとの考えと同じだ。ただし、ヨハネでは呼びかける対象はユダヤ人以外にも広がっている点が異なる。ヨゼフ、マリア。イエスを「聖家族」と教会が呼ぶのは、「神のことば」を聴き、探求し、生き、そして、神を賛美するからではないだろうか。今日の福音はそれを示唆している。


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