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2019年11月3日(日) 年間第31主日 ルカによる福音書19章1節-10節
あるファリサイ派の人は、神の働きにではなく、所謂、自力、「信仰」の業によって徴税人と較べて誇った。しかし、神の目は徴税人に注がれていた。徴税人頭のザアカイは財力で自己を誇ろうとした。しかし、世間はザアカイ本人にではなく、その金力の前に跪いていた。ザアカイは寂しかった。誰もイエスを観に誘ってくれないし場所さえも空いてなかった。ザアカイの世間的評価はゼロ、地上には足のつけるところもない、まるで生きてない死んだ状態であった。その死んだザアカイにイエスは声を掛けられた。「降りてきなさい」つまり、「起き上がりなさい。私はあなたのところに泊まる。」つまり、「共にいる。」奴隷たちの叫び声を聴かれて脱エジプトを導かれた神のように。イエスや神は自力に頼る人の声ではなく苦難にある人の声を聴かれるのだ。 |
2019年11月10日(日) 年間第32主日 ルカによる福音書20章27節-38節
「復活」思想は、ユダヤが紀元前2世紀セレウコス朝シリア王の支配下にあって、そのヘレニズム化に抵抗して殉教して行ったユダヤ教徒、「義人」と呼ばれた人たちを神が永遠の生命に蘇らせてくれるはずだ、との考えから始まった。 つまり、神は殉教したユダヤ教徒をどう遇するのかの問いから生まれ、それが、イエス時代には、一般の人も「復活」するとの考えになった、と言う。 「義人の苦難の問題が神義論的に非常に大きな現実となったのは、BCE2世紀、ユダヤがセレウコ ス朝シリアの支配下にあった時代の、アンティオコス・エピファネスによるユダヤ教の迫害の時であると指摘される。ダニエル書から第四エズラ書(CE90-100頃) 74)に至るまでの、中間時代を中心と したユダヤ教文書における復活信仰の発達をたどったG. W. E. ニッケルスバーグの研究による と 75)、この迫害の時代に、義人の死に対する神義論的答えの必要から初めてユダヤ教に復活思想が 表れ76)、ダニエル書、ヨベル書などに殉教者の復活という形で預言され、そこでは神のために死ん だ殉教者だけが復活すると考えられたが、その後時代が下るにつれて、殉教者に限らず義人には死後の報いがあるという思想に展開し、やがて、第四エズラ書などに見られるように、すべての人々 が死後に一度復活し、そこで審判を受けて永遠の命あるいは永遠の罰を受けるという思想に変化し ていった。」『※-ヘブライ思想における神義論的問いの発展 ―旧約聖書から中間時代にかけて-(本多峰子著)』 だから、サドカイ派の尋ねる「復活」の状態はどうか、と言う問いは軽薄、うすっぺらとしか言いようがない。ナザレのイエスにとって、苦難を負わされたガリラヤの民衆の人生が喜びと感謝になることの方が先決であった。教会の関心もそちらに向かうことがイエスの願いではないだろうか。 |
2019年11月17日(日) 年間第33主日 ルカによる福音書21章5節-19節
イエスはガリラヤの苦難の人たちに「神の国(支配)は近づいた」と述べ伝えた。彼・彼女らはローマ帝国、ヘロデ王、エルサレムのユダヤ教指導者たちから抑圧、搾取、差別されて、塗炭の苦しみにあった。イエスはそれら権力者の支配にではなく、既に始まっている「神の支配(=人はだれもが平等だ)」の下に生きようと声を上げたのだ。 しかし、弟子たちや原始キリスト教団は当時の終末思想から「神の支配」を世の終わりに到来すると考えたのであった。ところが、イエスの死後もなかなか実現しなかった、所謂、「終末の遅延」問題えあった。それ故、教団ではいつ来るかわからない「神の支配」を目を覚まし続けて待つように、信徒を指導したのであった。それは、2000年後の現代まで続いているのだ。現代では「神の支配」の到来ではなく、環境破壊、核戦争の危機、バイオ技術の暴走、等によって、弱者の苦難、人類の滅亡が迫っている。この危機をどう乗り越えられるのか教会は目覚めて答えなければならない。 |
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