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2019年10月6日(日) 年間第27主日 ルカによる福音書17章5節-10節
イエスはラザロと金持ちの間にある深い溝を埋め橋を架けようとした。何故なら、誰もが分け隔てなく喜びの宴を共に喜ぶためであった。まさに、神のみ心「悪人の滅びを望まない。生き返ることを望む」を実現することであった。そのために、富を不正に蓄えることを止め、貧者との連帯「友をつくれ」と富者・強者に回心を呼びかけた、が、彼らは耳を貸さず、聖書も読まず、むしろ、イエスを排除したのであった。そのイエスの後を追った弟子たち、教会の歩みは、また、同様であった。神の愛の貫徹、誰もが大事にされる状態の実現と言う理想の道は自己の無力さの自覚故に、一層、「見果てぬ夢」となったであろう。それ故、「信仰を強めてください」と叫ばずにはいられなかった。 さて、『信仰』と訳されている語を他の翻訳で見ると、『神の信』、『神により頼む心』とある。つまり、「確信」の意であろう。マリアの『み言葉どおりになりますように』の強い信頼ではないか。いつか、山が動くと確信して、無様になってイエスの道を歩み続けよう。 |
2019年10月13日(日) 年間第28主日 ルカによる福音書17章11節-19節
「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」ユダヤ人たちは古代イスラエル王国の時代から、それを神が示された人間の生き方の指針として、従うことを神と約束した。しかし、忘れて他の神バアルに従ったため、背信とされ、王国滅亡、他国の支配下に置かれたのであった。イエス時代はローマ帝国の圧政からの解放を神に願い、一層、厳格に「安息日の掟」を守ろうとした。福音書のイエスとの論争物語いあるように。 さて、「安息日」の遵守には何の意味があるのだろうか。一切の仕事から離れるとは神との対面に専心しろ、つまり、神の前で、自分の来し方行く末を顧み熟考し、何者であり、何者になるのかを知る時を持て、と言うのではないか。神の前に立つとき、己の弱さ、醜さ、罪深さを認めざるを得ない。例えば、『放蕩息子』、『金持ちと乞食ラザロ』のたとえ話を聞かされたときに。しかし、それでも、自分が生かされていることを知る。その時、神と他者からの愛に気づいて、ゆるしを願い感謝の気持ちとなり、新しく生き返るのだ。 従って、キリスト教会での安息日遵守であるミサの祝いも同様の意味を持つ。ミサは「再契約締結式」であるから、まず、自分を生かされた神の前に立ち、神の言葉に従うとの約束に忠実であったかどうか、つまり、「来し方」の反省、あらためて、神の言葉を与えられ、つまり生まれ変わり「行く末」を神と約束し直すのだ。今日の聖書の箇所は、神との関係を見直すことを勧める。御利益をいただく神との関係ではなく、感謝し約束し生まれ変わることを約束する関係へと。 |
2019年10月20日(日) 年間第29主日 ルカによる福音書18章1節-8節
今日の譬えのイエスの語った本体は2から5節で、前後はルカの編集句と言われる。(田川健三『新約聖書 訳と註2上』) イエスが弟子から教えてくれと言われて答えた祈りが「主の祈り」であった。それは、神に願い事を述べるのではなく、自分たちの運動の合言葉、即ち、その目的を指すものであった。また、イエスが群れを離れて一人祈ったと福音書に書かれているが、それも願い事するのではなく、自己を顧み、再び、神の呼び掛けに応え立ち上がるためであった。また、からし種一粒の信頼があれば、山を動かすことができるとのイエスの発言がある。それらのことから、祈り続ければ願いが叶う、とイエスは言わなかったのではないか。 では、『裁判官とやもめ』の譬えでイエスは何を語ろうとしたのか。やもめの必死さに比べて、やもめを軽く見てさぼろうとする裁判官を批判しているのではないか。イエス当時の裁判官役は律法学者が担っていた。その世間的評価の高い裁判官としての律法悪者たちがしていることは、本来の義務、つまり、神との契約「弱者の保護、権利擁護」を忘れているのが実情ではないか、と偉ぶっている律法学者を批判しているのだ。 |
2019年10月27日(日) 年間第30主日 ルカによる福音書18章9節-14節
私たちと神の関係は、何でしょうか。神を信じていると言って、「信仰を増してください」の願いや、「倦まず弛まず祈れば聞き届けられる」との言説は、「信仰」が学歴、家柄、地位のような能力であって、それが高ければ高いほど神から恵みや奇跡を引き出すことのできるものと考え、神を人に従わせていないだろうか。従って、「信仰」の高低によって人を評価しているのではないか。今日のたとえ話のファリサイ派のように、「信仰」を神からの評価の基準とし、自分は「高い、優れた」、つまり、神から誉められて当然で世間の評判も得ていると鼻高々になり、徴税人は汚れた、つまり、「低い、劣っている」と見下しているのではないか。 しかし、聖書の神は人間の「信仰」有無によって人を大事にするのだろうか。創造にあたっての「人を男女に創り、ご自身に似せて創られた」とあるように、老若男女、障害のある人もない人も、人種民族の違いを超えて、どんな人も、すべての人が神の似像であること、つまり、掛け替えのない大事な人であるとの宣言に他ならない。そのメッセージは自己の弱さ、欠点にもかかわらず無条件に神から大事にされると言う福音だ。また、出エジプトの物語は、人としての社会的価値のない「奴隷」の叫びを特に聞かれた神の「奴隷」からの解放物語ではないか。その神を自分の神として契約し、神の言葉、つまり、誰もが平等、特に、弱い立場の人たちを大事にすることを最高の指針としてそれに従って生きることを約束したのが神との関係なのだ。 ファリサイ派に欠けていたのは、まず、自己の「信仰」よるのではなく神の無条件の愛に気づき感謝することであった。次に自分の恵まれた境遇を弱い立場の人たちとの連帯に分かち合う生き方の約束に立ち帰ることであった。 |
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