ももちゃんの一分間説教



今週の一句
増税や 庶民の懐 赤紅葉

―もとゐ―


 2019年10月6日(日)
 年間第27主日

 ルカによる福音書17章5節-10節

17,5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
17,6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
17,7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。
17,8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
17,9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
17,10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

 イエスはラザロと金持ちの間にある深い溝を埋め橋を架けようとした。何故なら、誰もが分け隔てなく喜びの宴を共に喜ぶためであった。まさに、神のみ心「悪人の滅びを望まない。生き返ることを望む」を実現することであった。そのために、富を不正に蓄えることを止め、貧者との連帯「友をつくれ」と富者・強者に回心を呼びかけた、が、彼らは耳を貸さず、聖書も読まず、むしろ、イエスを排除したのであった。そのイエスの後を追った弟子たち、教会の歩みは、また、同様であった。神の愛の貫徹、誰もが大事にされる状態の実現と言う理想の道は自己の無力さの自覚故に、一層、「見果てぬ夢」となったであろう。それ故、「信仰を強めてください」と叫ばずにはいられなかった。

 さて、『信仰』と訳されている語を他の翻訳で見ると、『神の信』、『神により頼む心』とある。つまり、「確信」の意であろう。マリアの『み言葉どおりになりますように』の強い信頼ではないか。いつか、山が動くと確信して、無様になってイエスの道を歩み続けよう。
今週の一句
埋め尽くす デモの雨傘 彼岸花

―もとゐ―


 2019年10月13日(日)
 年間第28主日

 ルカによる福音書17章11節-19節

17,11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
17,12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、
17,13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
17,14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
17,15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
17,16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
17,17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
17,18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
17,19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」ユダヤ人たちは古代イスラエル王国の時代から、それを神が示された人間の生き方の指針として、従うことを神と約束した。しかし、忘れて他の神バアルに従ったため、背信とされ、王国滅亡、他国の支配下に置かれたのであった。イエス時代はローマ帝国の圧政からの解放を神に願い、一層、厳格に「安息日の掟」を守ろうとした。福音書のイエスとの論争物語いあるように。

 さて、「安息日」の遵守には何の意味があるのだろうか。一切の仕事から離れるとは神との対面に専心しろ、つまり、神の前で、自分の来し方行く末を顧み熟考し、何者であり、何者になるのかを知る時を持て、と言うのではないか。神の前に立つとき、己の弱さ、醜さ、罪深さを認めざるを得ない。例えば、『放蕩息子』、『金持ちと乞食ラザロ』のたとえ話を聞かされたときに。しかし、それでも、自分が生かされていることを知る。その時、神と他者からの愛に気づいて、ゆるしを願い感謝の気持ちとなり、新しく生き返るのだ。

 従って、キリスト教会での安息日遵守であるミサの祝いも同様の意味を持つ。ミサは「再契約締結式」であるから、まず、自分を生かされた神の前に立ち、神の言葉に従うとの約束に忠実であったかどうか、つまり、「来し方」の反省、あらためて、神の言葉を与えられ、つまり生まれ変わり「行く末」を神と約束し直すのだ。今日の聖書の箇所は、神との関係を見直すことを勧める。御利益をいただく神との関係ではなく、感謝し約束し生まれ変わることを約束する関係へと。
今週の一句
甲高き カラスの鳴き音 天高し

―もとゐ―


 2019年10月20日(日)
 年間第29主日

 ルカによる福音書18章1節-8節

18,1 〔そのとき、〕イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
18,2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
18,3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
18,4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
18,5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
18,6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
18,7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
18,8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

 今日の譬えのイエスの語った本体は2から5節で、前後はルカの編集句と言われる。(田川健三『新約聖書 訳と註2上』)

 イエスが弟子から教えてくれと言われて答えた祈りが「主の祈り」であった。それは、神に願い事を述べるのではなく、自分たちの運動の合言葉、即ち、その目的を指すものであった。また、イエスが群れを離れて一人祈ったと福音書に書かれているが、それも願い事するのではなく、自己を顧み、再び、神の呼び掛けに応え立ち上がるためであった。また、からし種一粒の信頼があれば、山を動かすことができるとのイエスの発言がある。それらのことから、祈り続ければ願いが叶う、とイエスは言わなかったのではないか。

 では、『裁判官とやもめ』の譬えでイエスは何を語ろうとしたのか。やもめの必死さに比べて、やもめを軽く見てさぼろうとする裁判官を批判しているのではないか。イエス当時の裁判官役は律法学者が担っていた。その世間的評価の高い裁判官としての律法悪者たちがしていることは、本来の義務、つまり、神との契約「弱者の保護、権利擁護」を忘れているのが実情ではないか、と偉ぶっている律法学者を批判しているのだ。 
今週の一句
金木犀 きのうときょうの 交差点

―もとゐ―


 2019年10月27日(日)
 年間第30主日

 ルカによる福音書18章9節-14節

18,9 〔そのとき、〕自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18,10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18,11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18,12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18,13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18,14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 私たちと神の関係は、何でしょうか。神を信じていると言って、「信仰を増してください」の願いや、「倦まず弛まず祈れば聞き届けられる」との言説は、「信仰」が学歴、家柄、地位のような能力であって、それが高ければ高いほど神から恵みや奇跡を引き出すことのできるものと考え、神を人に従わせていないだろうか。従って、「信仰」の高低によって人を評価しているのではないか。今日のたとえ話のファリサイ派のように、「信仰」を神からの評価の基準とし、自分は「高い、優れた」、つまり、神から誉められて当然で世間の評判も得ていると鼻高々になり、徴税人は汚れた、つまり、「低い、劣っている」と見下しているのではないか。

 しかし、聖書の神は人間の「信仰」有無によって人を大事にするのだろうか。創造にあたっての「人を男女に創り、ご自身に似せて創られた」とあるように、老若男女、障害のある人もない人も、人種民族の違いを超えて、どんな人も、すべての人が神の似像であること、つまり、掛け替えのない大事な人であるとの宣言に他ならない。そのメッセージは自己の弱さ、欠点にもかかわらず無条件に神から大事にされると言う福音だ。また、出エジプトの物語は、人としての社会的価値のない「奴隷」の叫びを特に聞かれた神の「奴隷」からの解放物語ではないか。その神を自分の神として契約し、神の言葉、つまり、誰もが平等、特に、弱い立場の人たちを大事にすることを最高の指針としてそれに従って生きることを約束したのが神との関係なのだ。

 ファリサイ派に欠けていたのは、まず、自己の「信仰」よるのではなく神の無条件の愛に気づき感謝することであった。次に自分の恵まれた境遇を弱い立場の人たちとの連帯に分かち合う生き方の約束に立ち帰ることであった。          


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