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2019年9月1日(日) 年間第22主日 ルカによる福音書14章1節、7節-14節
イエスは「大食漢で大酒飲み」とユダヤ教指導者から非難されてるように、福音書には宴会の話しが多数ある。その宴会では、同じくユダヤ教指導者たちが決して交わらなかった「罪人、遊女、徴税人」たちと催したとある。それほどまでにイエスはユダヤ教から排斥、排除された人々の「仲間」であったのだ。 なぜなら、当時のユダヤ社会では宴会を、家系、職や地位、趣味などを共有する会員、つまり、「仲間」とするのが常であったから。また、イエス運動の「今日のパンを得られるように」の主旨に、飢えた人たちと食を共にしたことはそれを証しすることであったからだ。 そもそも、聖書では食事や宴会はの「神の国」の先取りとされた。宴会に招かれた人たちは終末の喜びに与れたと言う。(例 イザヤ25,6、同49,10、他)つまり、イエスがユダヤ教から「罪人」と烙印を押された者たちと宴を共にしたことは、彼らこそが神の国に招かれていることをしめしている、しかも、終末ではなく、「今」なのだ。もちろん、そのイエスのあり方はユダヤ教指導者からは受け入れられるものではなかった。翻って、現在の教会のミサに招かれた人は、ある意味、上座に座りたい人だけではないのか。 |
2019年9月8日(日) 年間第23主日 ルカによる福音書14章25節-33節
神の国到来のイエス運動への参加には自己吟味と用意周到でなければ後悔する、と今日の箇所は教える。 さて、出エジプトの際、モーセは神からリーダーになれと呼び出された。モーセはその大事業を背負いきれないと断るけれど、神の度重なる懇願と神の「いつも共にいる」の約束に止む無く立ち上がった。けれども、エジプト王ファラオとの頑迷な交渉に幾度も臨んだり、荒野の過酷な旅に烏合の衆のヘブライの民を辛抱強く導かなければならなかった。途中、モーセは何度も神に不平を訴えている。そして、遂には、モーセと初代のエジプト脱出組の民は、約束の地には入れなかった。なぜなら、神を信じなかったからと言われているのだ。しかし、ユダヤ教ではモーセを偉大な指導者、神のことばを取り次いだ預言者と讃えている。 これらの旧約の故事から、イエス運動参加の資格は自己吟味と用意周到でなければならない、との忠告を素直に認められない。では、モーセの例から、また、イエス自身の歩みからどう考えたらよいのか。モーセやイエスはただの人で、資格も権威も富もなく、出エジプト、神の国到来のこの世からは決して認められない神の働きに参加するには頼れるのは神の言葉以外にはなかった。神の言葉への深い思索、洞察、賢明な判断によって大きな課題に応えていった。しかし、モーセもイエスもあまりにも苛酷な状況に神の言葉を信じ切れなくなるのは当然、何度でもあったのではないか。つまり、自己吟味、用意周到はモーセ、イエスの例を見ることを忘れず、それでもついて行くことではないだろうか。 |
2019年9月15日(日) 年間第24主日 ルカによる福音書15章1節-32節
イエス運動への参加は、現状への認識、分析、洞察から、それを批判的に変革、即ち、イエスの目指した社会から拒否された人々が神の国の食卓に招かれる、つまり、自分を大事にするように他者を大事にするにはどうしたら良いかを追求し続けることが必要であった。 今日の聖書の箇所は、それがどれほど無理解、無理解者には家族や同僚、仲間もいるだろう、拒絶のなかでの孤立無援な道であるのかを99匹を残して、一匹の羊を捜し回る羊飼いの姿に譬えられている。 |
2019年9月22日(日) 年間第25主日 ルカによる福音書16章1節-13節
宴には、お返しのできない貧しい者、障害者を招きなさい。正しい99人より、道に迷った一人を見つけるまで探し回る羊飼い、ろくでなしの弟息子を勤勉勤労の兄息子の非難にもかかわらず大歓迎の宴を催した父のたとえ話、そして、今日の「不正な富で友人を作れ」は、人の常識を覆す、ある意味、非常識、非現実的な話しだ。常識的、道徳的正しい人はそのイエスの話しに反感を持つ。イエスへの無理解とはその非常識について行けないとのことだろう。 しかし、イエスは人々を対立、分断させるために話したのではないだろう。むしろ、「常識」への疑い、考えさせ、目を開かせ、新しい人に変えるため、まさに、「回心」のためではないか。親鸞の『悪人正気説』と同じ働きではないか。そして、何より、神の人へのみ心を示している。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼキエル33・11)有難い神のみ心なのだ。 さて、本日の「不正な管理人」の『不正』は管理人ではなく、「主人」であり、その主人が富を「不正」に蓄えたことを指している。と言うのは、古代では富には限りがあり、一方が富み、他方が貧していることは、不正に富を得ていることにほかならず「罪」とされた。それ故に、旧約聖書には「貸すときには利子や利益を取ってはならない」と神との約束が記され、それを破る者には神の罰があると預言者から指摘されている。(参照 レビ25・35、ホセア12・8、アモス8・5、等)従って、「不正な富で友人を作れ」とは、「富」を自分の利益のため、人をさらに貧しくさせる「不正」のためにではなく、困窮する者たちと共に生きられるために用いよの意味ではないだろうか。 |
2019年9月29日(日) 年間第26主日 ルカによる福音書16章19節-31節
イエスの述べ伝えた「神の国」とは、誰もが分け隔てなく喜びの宴に招かれることであった。なかんずく、この世から蔑めれ卑しめられ排除された人々こそその宴に招かれている状態を言うのであった。何故なら、神ヤーウエはユダヤ人の先祖古代イスラエルの民はエジプトの奴隷状態から解放された恵みを与えられたのだから。他者を奴隷のような非人間的状態にしてはならない、助け合うことが解放された者の生き方であり、それに従うかぎり、解放された状態にとどまれるとの約束を神と交わしたのであった。しかしながら古代イスラエル王国が経済的豊かになって以来、イエスのローマ帝国支配時代に至るまで強い者、豊かな者が弱い人貧しい人を虐げ搾取し、死に至らしめたのであった。ユダヤ人は神に背いて、再び、エジプトの奴隷に戻ってしまった。 イエスは神に背き、金持ちのように目の前にいる乞食のラザロを無視し、飽食と惰眠を貪っているユダヤ教指導者を告発したのであった。けれど、彼らはイエスの言葉に耳を傾けなかった。まさに、ラザロと金持ちの間には越えられない深い溝があるのだ。それは、教会と弱い立場の人々との間でもあるのではないか。 |
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