ももちゃんの一分間説教



今週の一句
通学路 子らはふるさと 蝉しぐれ

―もとゐ―


 2019年8月4日(日)
 年間第18主日

 ルカによる福音書12章13節-21節

12,13 〔そのとき、〕群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
12,14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
12,15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
12,16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
12,17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
12,18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
12,19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
12,20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
12,21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 イエスは、その運動に加わった弟子たちと一緒に繰り返し口にする合言葉、いわゆる、『主の祈り』を弟子に教えた。その合言葉で、自分たちが何者であり、何をするために集まっているかを口ずさむ度に確認した。

 すなわち、パンを食べられることと負債の帳消しがイエス運動であった。何故なら、ガリラヤの貧しい人たちはエルサレムの大土地所有者の小作人とされ、重すぎる年貢・税金の徴収から莫大な借金を背負わされ、土地を取られ、息子娘を売り、極貧の農奴とされたのであった。つまり、彼らの不幸はエルサレムの金持ちの搾取、ユダヤ教からの宗教的差別に起因するのであった。

 イエスはガリラヤの貧しい者たちの苦難から解放され、その人生が幸いになるためには、まずは、金持ちである大土地所有者、ユダヤ教指導者の回心であることを痛感していた。

 さて、イエスはパンが食べられることと負債の帳消しが神のみ心であることを旧約聖書から学んでいた。神は、契約の民が「聖」となるよう呼び掛けている。イエスはそれを神のみ心だと考え、応えることが神との契約に忠実だと考えた。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」(レビ19章2節)そして、聖であることの具体的指針を神は与えている。「収穫後の落ち穂、ぶどう畑の落ちた実を拾い集めるな。これらは貧しい者たちのために残しなさい。」(参照 レビ19章9節,10節)と。この点から、たとえの金持ちには神との契約違反を指摘される。また、借金の帳消しについては、レビ25章『ヨベルの年』、すなわち、負債の免除や貧しい人との共生を実現するよう呼び掛けている。この点からも、金持ちは蔵を建てることより、貧しい人への配慮、共生を優先すべきであった。

 以上から、今回のたとえ話を『主の祈り』から理解することができる。
今週の一句
焼ける街 緑陰切り払い 城木造

―もとゐ―


 2019年8月11日(日)
 年間第19主日

 ルカによる福音書12章32節-48節

12,32 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
12,33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
12,34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
12,35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。
12,36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
12,37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。
12,38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
12,39 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。
12,40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
12,41 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、
12,42 主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。
12,43 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。
12,44 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
12,45 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、
12,46 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。
12,47 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。
12,48 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

 大土地所有者は蔵を建てまして、余生を贅沢三昧に暮らそうと思っていた矢先、寿命が尽きてしまった。人間の誰もが明日は分からない。災害や不慮の事故によって、いつ死が訪れてもおかしくない状況に人は立たされている。であるならば。その生の一瞬一瞬を大事に生きなければと思わざるを得ない。

 しかしながら、その生の冷厳な現実にもかかわらず、日々、だらだらと生きているのが常だ。福音書は怠惰な人間にそれを思い出させる。『明日を思い煩うな。』、『何を食い、何を着るか思い悩むな。』の言葉は、出エジプトの「マナ」の話のように必要以上を求めるな、の意味。まさに、前者の大金持ちのように弱者から取り立て、貯め込み、贅沢に暮らす強欲さを批判しているのだ。

 他者の犠牲の上に生きるのではなく、共生・分かち合いに生きること。そのためには、『まず、神の国を求めよ。』即ち、公正・公平な世界、誰もが大切にされるために神の言葉を互いに守ることを第一とするのだ。そうすれば、相互扶助が基本だから、飢える人も裸の人もいなくなるはずだ。『目を覚ませ』とは限りある命をどう生きるか常に心を向けなさい、とのことだ。
今週の一句
田面や 熱波押し戻す 台風かな

―もとゐ―


 2019年8月18日(日)
 年間第20主日

 ルカによる福音書12章49節-53節

12,49 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
12,50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。
12,51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
12,52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
12,53 父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」

 イエスは貧しい人たちに、神はお前たちの近くにおられる、と当時のユダヤ教指導者の神学、つまり、貧しい人たちとは神が遠くにいる、神の罰を受けている、との考えにチャレンジした。『安息日は人のためにある。』、『汚れは心の中から出てくる』、等のイエスの言葉からもそれがわかる。当然、イエスの言葉に非難、反発、社会秩序を乱す者として排除する者たちも出てくる。それは、イエスだけではなく、洗礼者ヨハネやエッセネ派に対しても同じであった。イエスが「勝った」、つまり、福音に生きることが万人に受けいられず、「十字架の道」であることを教えられる。  
今週の一句
スイカ割り 目隠しきりり 千鳥足

―もとゐ―


 2019年8月25日(日)
 年間第21主日

 ルカによる福音書13章22節-30節

13,22 〔そのとき、〕イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。
13,23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。
13,24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
13,25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。
13,26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。
13,27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
13,28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。
13,29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
13,30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

 「救われるには、狭い戸口から入れ。」

 紀元前3世紀頃から終末を間近に感じたユダヤ人たちは、神の裁きに耐えられる道を探した。あるグループは、神の言葉、律法を厳格に遵守する道を選んだ。

 洗礼者ヨハネは『悔い改めの洗礼』を受けることを説いた。前者は激しい競争のエリートの道、所謂、狭き門だ。後者は神殿での高価な捧げものの出来ない貧しい庶民の道、所謂、安易な道だとユダヤ教指導者から非難された。

 更に、イエスは従来の考えを180度転換した。即ち、救われるのではなく、神の国に生きることを実践した。『主の祈り』を合言葉として、パンが食べられることと、負債の帳消し運動を始めた。それは、ガリラヤの飢えた貧しい人たちには、福音となったが、社会変革を企むとしてエルサレムの富裕者たちには拒絶され、迫害された。さらに、ユダヤ教指導者たちの律法の伝統的解釈や形式的遵守ではなく、『良きサマリア人の譬え』のように、「隣人になる」ことを神の意志とし、同じく180度転換したイエスの考え方を受け入れられなかった。

 イエスの道は、開かれた道でありながら、強者・富者には閉ざされた道であった。まさに、先週の福音箇所のように「平和ではなく、分裂、争いをイエスがもたらした。」のであった。私たちキリスト者はイエスから招かれ、神の国に生きる道を選んだのだ。


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