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2019年8月4日(日) 年間第18主日 ルカによる福音書12章13節-21節
イエスは、その運動に加わった弟子たちと一緒に繰り返し口にする合言葉、いわゆる、『主の祈り』を弟子に教えた。その合言葉で、自分たちが何者であり、何をするために集まっているかを口ずさむ度に確認した。 すなわち、パンを食べられることと負債の帳消しがイエス運動であった。何故なら、ガリラヤの貧しい人たちはエルサレムの大土地所有者の小作人とされ、重すぎる年貢・税金の徴収から莫大な借金を背負わされ、土地を取られ、息子娘を売り、極貧の農奴とされたのであった。つまり、彼らの不幸はエルサレムの金持ちの搾取、ユダヤ教からの宗教的差別に起因するのであった。 イエスはガリラヤの貧しい者たちの苦難から解放され、その人生が幸いになるためには、まずは、金持ちである大土地所有者、ユダヤ教指導者の回心であることを痛感していた。 さて、イエスはパンが食べられることと負債の帳消しが神のみ心であることを旧約聖書から学んでいた。神は、契約の民が「聖」となるよう呼び掛けている。イエスはそれを神のみ心だと考え、応えることが神との契約に忠実だと考えた。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」(レビ19章2節)そして、聖であることの具体的指針を神は与えている。「収穫後の落ち穂、ぶどう畑の落ちた実を拾い集めるな。これらは貧しい者たちのために残しなさい。」(参照 レビ19章9節,10節)と。この点から、たとえの金持ちには神との契約違反を指摘される。また、借金の帳消しについては、レビ25章『ヨベルの年』、すなわち、負債の免除や貧しい人との共生を実現するよう呼び掛けている。この点からも、金持ちは蔵を建てることより、貧しい人への配慮、共生を優先すべきであった。 以上から、今回のたとえ話を『主の祈り』から理解することができる。 |
2019年8月11日(日) 年間第19主日 ルカによる福音書12章32節-48節
大土地所有者は蔵を建てまして、余生を贅沢三昧に暮らそうと思っていた矢先、寿命が尽きてしまった。人間の誰もが明日は分からない。災害や不慮の事故によって、いつ死が訪れてもおかしくない状況に人は立たされている。であるならば。その生の一瞬一瞬を大事に生きなければと思わざるを得ない。 しかしながら、その生の冷厳な現実にもかかわらず、日々、だらだらと生きているのが常だ。福音書は怠惰な人間にそれを思い出させる。『明日を思い煩うな。』、『何を食い、何を着るか思い悩むな。』の言葉は、出エジプトの「マナ」の話のように必要以上を求めるな、の意味。まさに、前者の大金持ちのように弱者から取り立て、貯め込み、贅沢に暮らす強欲さを批判しているのだ。 他者の犠牲の上に生きるのではなく、共生・分かち合いに生きること。そのためには、『まず、神の国を求めよ。』即ち、公正・公平な世界、誰もが大切にされるために神の言葉を互いに守ることを第一とするのだ。そうすれば、相互扶助が基本だから、飢える人も裸の人もいなくなるはずだ。『目を覚ませ』とは限りある命をどう生きるか常に心を向けなさい、とのことだ。 |
2019年8月18日(日) 年間第20主日 ルカによる福音書12章49節-53節
イエスは貧しい人たちに、神はお前たちの近くにおられる、と当時のユダヤ教指導者の神学、つまり、貧しい人たちとは神が遠くにいる、神の罰を受けている、との考えにチャレンジした。『安息日は人のためにある。』、『汚れは心の中から出てくる』、等のイエスの言葉からもそれがわかる。当然、イエスの言葉に非難、反発、社会秩序を乱す者として排除する者たちも出てくる。それは、イエスだけではなく、洗礼者ヨハネやエッセネ派に対しても同じであった。イエスが「勝った」、つまり、福音に生きることが万人に受けいられず、「十字架の道」であることを教えられる。 |
2019年8月25日(日) 年間第21主日 ルカによる福音書13章22節-30節
「救われるには、狭い戸口から入れ。」 紀元前3世紀頃から終末を間近に感じたユダヤ人たちは、神の裁きに耐えられる道を探した。あるグループは、神の言葉、律法を厳格に遵守する道を選んだ。 洗礼者ヨハネは『悔い改めの洗礼』を受けることを説いた。前者は激しい競争のエリートの道、所謂、狭き門だ。後者は神殿での高価な捧げものの出来ない貧しい庶民の道、所謂、安易な道だとユダヤ教指導者から非難された。 更に、イエスは従来の考えを180度転換した。即ち、救われるのではなく、神の国に生きることを実践した。『主の祈り』を合言葉として、パンが食べられることと、負債の帳消し運動を始めた。それは、ガリラヤの飢えた貧しい人たちには、福音となったが、社会変革を企むとしてエルサレムの富裕者たちには拒絶され、迫害された。さらに、ユダヤ教指導者たちの律法の伝統的解釈や形式的遵守ではなく、『良きサマリア人の譬え』のように、「隣人になる」ことを神の意志とし、同じく180度転換したイエスの考え方を受け入れられなかった。 イエスの道は、開かれた道でありながら、強者・富者には閉ざされた道であった。まさに、先週の福音箇所のように「平和ではなく、分裂、争いをイエスがもたらした。」のであった。私たちキリスト者はイエスから招かれ、神の国に生きる道を選んだのだ。 |
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