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2019年7月7日(日) 年間第14主日 ルカによる福音書10章1節-12節、17節-20節
イエスは神に呼ばれて、貧しい人々へ福音を伝えた。それは、神が遠くにいる罰する方ではなく、あなたがた一人ひとりを大事にしている、まさに、神の愛が、当時のユダヤ教に「勝った」(福音の原義)ことであった。 何故なら、当時のユダヤ教では、貧しい者を「罪人、汚れた人」として、神の罰を受け、救いから除外された人と考え、差別し虐げていた。それに対し、イエスは「否」と叫び、旧約の人権思想「神の前では誰もが平等だ」から学び神が大事にされていると宣言し、関わられたのだ。 イエスに出会ったガリラヤの貧しい人たちは、イエスから神の愛を体感したのではないだろうか。カルカッタのマザーテレサによって路上に放り出された人が世話を受け、最後を看取られたように。貧しい人を更に貧しくし、暴力を振るい、死に追いやる、宗教政治社会の圧力からの解放を(ルカ4,18-19)神の愛とイエスは伝えたのだ。弟子である教会もそれに派遣されている。 |
2019年7月14日(日) 年間第15主日 ルカによる福音書10章25節-37節
ルカ福音書では、イエスのエルサレムへの宣教の旅に読者を誘う。読む側はイエスの旅の同伴者となる。 イエスの旅は、同4・18以下のように「貧しき者に福音を告げる」ことだ。即ち、「捕らわれ人、目の見えない人、圧迫されている人を自由にし、目の見えるようにする」こと、まさに、苦難にある人たちの「隣人に成る」ことだ。それは、神がエジプトにおけるヘブライの民をその奴隷状態から解放され「隣人となった」ように。 さて、復活節を通して、私たちは「復活」とはエマオへ戻る二人の弟子の話のように、イエスとの出会いによって閉じていた目や、鈍く、物わかりの悪い心が開かれ、分かり、見えるようになり、心が燃え、イエスの宣教を継続することと教えられた。 出エジプトによって奴隷から解放されたヘブライの人々は再び奴隷にならない、奴隷にしない理想社会に向かって困難な旅、「荒野の旅」をしなければならなかった。なかでも、寄留者、孤児、寡婦の生命・人権を守るようにとの神の言葉を大事にした。何故なら、奴隷からの解放という素晴らしい恵みを神から無償で与えられた、つまり、資格のないのにもかかわらず神は無条件に愛したからだ。 あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者のなかの主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。(申10・17,18) キリスト者の私たちは、かって、道端に倒れ、瀕死にあった、けれども、見て見ぬふりをして誰も助けてくれなかったにもかかわらず、イエスだけが死を賭して駆け寄り、立ち上がらせていただいた者ではないか、であるならば、同じように、倒れ、傷つき、苦難を負った人びとを見棄ててよいだろうか思わずにいはいられないのではないか。 私たちはイエスとの出会いによって、目が開かれ、心が燃え、立ち上がることができたからこそ、感謝してイエスの後を追い、「貧しき者」へ福音を伝えに行こうではないか。 |
2019年7月21日(日) 年間第16主日 ルカによる福音書10章38節-42節
旧約聖書によれば、神と人との関係を「契約」と呼ぶ。つまり、神と人は相互に対等の約束を結ぶ。人は神を最終の権威と認め、その生き方の指針に従って、神からの幸いと命を得る。神の指針と幸いは神が与えるのであって、それは、人の恣意的な指針や幸いではない。 例えば、奴隷からの解放はパンが腹いっぱい食べられ、空腹からの解放という人間的欲望の充足ではなく「欲望」からの自由を指す。また、指針、律法、掟の遵守は出世、金持ち、天国、等のこの世的幸いの獲得でもなく、神の栄光、つまり、「神を神とする」ことだ。古代イスラエル国のソロモン王の栄華を誇ること、その追及によって、国は滅亡したが、寄留者、寡婦、孤児が大事にされることこそ神の神たることなのだ。つまり、神との契約は人が神からのご利益を得ること、この世的応報に与ることではない。この点から、「良きサマリア人」、「マルタとマリア」の福音書のたとえ話を読み直すことができる。 前者では、宗教的義務を果たすことで、名誉と言う偶像神に仕えることではなく、「神が神とされる」つまり、苦難にある人から重荷を取り除くことであり、後者は、世間的評価と言う偶像神に応えることではなく、神の前にありのままを認め、告白すること、即ち、「神を神とすること」と読み直せるのではないだろうか。 |
2019年7月28日(日) 年間第17主日 ルカによる福音書11章1節-13節
イエスは神の国は近づいたと、貧しい人たちに福音を宣教した。「福音」とは「勝った」と言うこと、つまり、イエスは当時のユダヤ教では、「貧しい者」は「罪人・汚れた者」とされ、神の救い、恵みから、排除・除外され、言わば、神から最も遠く離れた人であった。その彼らに神はあなたがたをその囚われ、抑圧から解放するため近くに来られた、まさに、「幸い、貧しき者」と勝利をイエスはもたらしたのだ。 そのようなイエスの宣教は、いわゆる、信者を増やす布教ではなく、貧しい人たちの政治・経済、宗教的抑圧と差別からの解放運動と呼ばれる。「主の祈り」は神にお願いする祈願文ではなく、イエス運動の目的、何を、どのようにするのかを確認、省察、奮起するための運動に連なる者たちの合い言葉だ。合い言葉を連呼する度に、イエス運動の仲間たちは貧しい者たちの立ち上がり、つまり、パンが平等に行き渡ること、彼らを貧しくさせる社会構造からの解放、それこそ、神の国、神の支配、神の意志と呼ばれることに参加する自分を見出すのだ。 |
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