ももちゃんの一分間説教



今週の一句
雨音や 聞いて染みこむ 五月の田

―もとゐ―


 2019年6月2日(日)
 主の昇天

 ルカによる福音書24章46節-53節

24,46 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた聖書には〕「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
24,47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
24,48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
24,49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
24,50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24,51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
24,52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
24,53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

 復活の出来事は何より絶望のどん底にあった弟子たちが宣教に立ち上がったことを意味する。じゃ、何故、彼らが立ち上がれたのか、福音書ではイエスの生涯が何であったのかを彼らが旧約聖書に読み聴き学び、理解したからと物語る。イエスが誰であるか分からなければ、付いて行けない。イエス生前中の弟子たちには分からず、遂には見棄てたように。聖霊の働きとは「分かる」と言うことだ。(参照イザヤ11・2「その上に主の霊が留まる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。」)神の創造のように、霊が混沌の上に漂い(創1・2)、光と闇を「分け」て人間に宇宙が「分かった」如く、弟子たちは「分かった」ので闇から脱出できたのだ。

 高い所からの力に覆われるまで、即ち、聖霊が降るまで都に留まっていなさい、(ルカ24・49)は「分かる」までと言うこと。つまり、イエスが誰であり、何をしたのかを分かるまで、待っていなさい、とのこと。 
今週の一句
線引きは 水面に緑 田植えかな

―もとゐ―


 2019年6月9日(日)
 聖霊降臨の主日

 ヨハネによる福音書14章15節-16節、23b-26節

14,15 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14,16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14,23b わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
14,24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
14,25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
14,26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

 ヨハネ福音書では、私たちがイエスを誰かと分かり、再び付いて行くことを聖霊の働きと言う。今日の箇所はさらに、その付いて行くとは何かを教える。今日のヨハネ14章15節以下には、イエスを愛することは掟を守る、を4カ所で繰り返し述べる。

 15 あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
 21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。
 23 わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。
 24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。

 ケセン語に訳した山浦玄嗣氏によれば「愛する」を「大事に思う」と訳し、イエスを大事に思う人はイエスの言葉をしっかり守る、と訳されている。そして、聖霊はそのことをわたしたちに思い出させる、と言う。

 旧約聖書では、神の言葉、つまり、神の提示する生き方の指針を守る人に神が幸いと命を与えることを、神と人との契約と言う、従って、私たちの信仰は同様に契約、約束なのです。私たちは古い生き方から新しい生き方をイエスによって教えられ、目を覚ました恵みをいただきました。それを感謝し、イエスに付いて行くこと、即ち、イエスの言葉と行い、許しと仕えることを守る約束を交わしました。聖霊は私たちにそれを想い起こさせてくださるのです。
今週の一句
紫陽花や ほんのり赤らめ 降雨待つ

―もとゐ―


 2019年6月16日(日)
 三位一体の主日

 ヨハネによる福音書16章12節-15節

16,12 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
16,13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
16,14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
16,15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

 イエスに出会った人々は、イエスを様々に表現した。ヨハネ福音書では「ロゴス(ことば)」、「水」、「パン」、「羊飼い」、等、そして、「神の子」と表現している。それらはとは身体的物質的な意味ではなく、イエスの生きざま、言葉と行いを表現している。レビ記の神は「聖」であるからあなた方人間も「聖」になれ、と行うべき生き方の指針を人が守り生きることを「聖」と言うのと同じだ。(レビ記19章)

 イエスは言葉と行いにおける父なる神との一体性を次のように言う。「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない、わたしの内におられる父がその業を行っておられる。」(ヨハネ14、10b、他)そして、聖霊は私たちにイエスと父の一体性を悟らせる、分からせる、つまり、イエスから父を見るように働きかけ、父、御子の思いを認識し宣教へ向かわせる。こうして、キリスト者も「神の子」と呼ばれる。
今週の一句
草木揺れ 光こぼれる 梅雨晴れ間

―もとゐ―


 2019年6月23日(日)
 キリストの聖体

 ルカによる福音書9章11b節-17節

9,11b 〔そのとき、イエスは群衆に〕神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。
9,12 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」
9,13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」
9,14 というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。
9,15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。
9,16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
9,17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

 福音書は各地のイエスに関する様々な伝承を収集して、福音記者がそれぞれ編集して成したと言われる。その伝承には、病気癒し、嵐の鎮め、湖上歩行、そして、パンの増加の奇跡伝承、等があった。パンの増加の奇跡は、イエスとの出会いが飢えた人々にとってお腹を満たす神の働きだと受け止めたのだろう。ルカはその奇跡の場面を聖餐式として描いている。つまり、聖餐式とは飢えた貧しい人たちとイエスと弟子たちが自分たちのパンを分かち合ったことを忘れてはならない、と言いたいのだろう。確かに、パウロのコリント第一の手紙によれば、聖餐式と「愛餐」が一体しているものとして伝えている。即ち、主のパンを相応しく食べるために、豊かな人は我先に食べず、貧しい者に恥をかかせないように分け与えなさい、と勧告しているように。 
今週の一句
夏至祭 願いかなわぬ 日暮れかな

―もとゐ―


 2019年6月30日(日)
 年間第13主日

 ルカによる福音書9章51節-62節

9,51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。
9,52 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。
9,53 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。
9,54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。
9,55 イエスは振り向いて二人を戒められた。
9,56 そして、一行は別の村に行った。
9,57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。
9,58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
9,59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
9,60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
9,61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」
9,62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

 イエスの貧しい人たちへの関わりは、神が賛美されるためだ。神を賛美するとは、神が神とされること、即ち、誰もが大事にされること、飢えや病気、差別や暴力から解放されることだ。「主の祈り」のみ名が賛美されることは毎日のパンが与えられることと言うように。

 さて、その働きは、神との契約を交わす者にとっては忠実に生きることだ。それ故に、旧約の預言者たちは古代イスラエル王国の指導者たちのその背反を見抜き、回心を叫んだ。しかし、指導者たちは耳を閉じ、彼らを迫害し、命を狙った。イエスは当時のユダヤ教指導者たちをあからさまに糾弾したのではないが、その貧しい人たちへの関わりを脅威と彼らが感じたことは間違いないだろう。中世のフランシスコの働きに脅威を見た教皇庁のように。そのイエスに付いて行くとはイエスの受けた苦しみをも負うこととなる。


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