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2019年6月2日(日) 主の昇天 ルカによる福音書24章46節-53節
復活の出来事は何より絶望のどん底にあった弟子たちが宣教に立ち上がったことを意味する。じゃ、何故、彼らが立ち上がれたのか、福音書ではイエスの生涯が何であったのかを彼らが旧約聖書に読み聴き学び、理解したからと物語る。イエスが誰であるか分からなければ、付いて行けない。イエス生前中の弟子たちには分からず、遂には見棄てたように。聖霊の働きとは「分かる」と言うことだ。(参照イザヤ11・2「その上に主の霊が留まる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。」)神の創造のように、霊が混沌の上に漂い(創1・2)、光と闇を「分け」て人間に宇宙が「分かった」如く、弟子たちは「分かった」ので闇から脱出できたのだ。 高い所からの力に覆われるまで、即ち、聖霊が降るまで都に留まっていなさい、(ルカ24・49)は「分かる」までと言うこと。つまり、イエスが誰であり、何をしたのかを分かるまで、待っていなさい、とのこと。 |
2019年6月9日(日) 聖霊降臨の主日 ヨハネによる福音書14章15節-16節、23b-26節
ヨハネ福音書では、私たちがイエスを誰かと分かり、再び付いて行くことを聖霊の働きと言う。今日の箇所はさらに、その付いて行くとは何かを教える。今日のヨハネ14章15節以下には、イエスを愛することは掟を守る、を4カ所で繰り返し述べる。 15 あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。 23 わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。 24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。 ケセン語に訳した山浦玄嗣氏によれば「愛する」を「大事に思う」と訳し、イエスを大事に思う人はイエスの言葉をしっかり守る、と訳されている。そして、聖霊はそのことをわたしたちに思い出させる、と言う。 旧約聖書では、神の言葉、つまり、神の提示する生き方の指針を守る人に神が幸いと命を与えることを、神と人との契約と言う、従って、私たちの信仰は同様に契約、約束なのです。私たちは古い生き方から新しい生き方をイエスによって教えられ、目を覚ました恵みをいただきました。それを感謝し、イエスに付いて行くこと、即ち、イエスの言葉と行い、許しと仕えることを守る約束を交わしました。聖霊は私たちにそれを想い起こさせてくださるのです。 |
2019年6月16日(日) 三位一体の主日 ヨハネによる福音書16章12節-15節
イエスに出会った人々は、イエスを様々に表現した。ヨハネ福音書では「ロゴス(ことば)」、「水」、「パン」、「羊飼い」、等、そして、「神の子」と表現している。それらはとは身体的物質的な意味ではなく、イエスの生きざま、言葉と行いを表現している。レビ記の神は「聖」であるからあなた方人間も「聖」になれ、と行うべき生き方の指針を人が守り生きることを「聖」と言うのと同じだ。(レビ記19章) イエスは言葉と行いにおける父なる神との一体性を次のように言う。「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない、わたしの内におられる父がその業を行っておられる。」(ヨハネ14、10b、他)そして、聖霊は私たちにイエスと父の一体性を悟らせる、分からせる、つまり、イエスから父を見るように働きかけ、父、御子の思いを認識し宣教へ向かわせる。こうして、キリスト者も「神の子」と呼ばれる。 |
2019年6月23日(日) キリストの聖体 ルカによる福音書9章11b節-17節
福音書は各地のイエスに関する様々な伝承を収集して、福音記者がそれぞれ編集して成したと言われる。その伝承には、病気癒し、嵐の鎮め、湖上歩行、そして、パンの増加の奇跡伝承、等があった。パンの増加の奇跡は、イエスとの出会いが飢えた人々にとってお腹を満たす神の働きだと受け止めたのだろう。ルカはその奇跡の場面を聖餐式として描いている。つまり、聖餐式とは飢えた貧しい人たちとイエスと弟子たちが自分たちのパンを分かち合ったことを忘れてはならない、と言いたいのだろう。確かに、パウロのコリント第一の手紙によれば、聖餐式と「愛餐」が一体しているものとして伝えている。即ち、主のパンを相応しく食べるために、豊かな人は我先に食べず、貧しい者に恥をかかせないように分け与えなさい、と勧告しているように。 |
2019年6月30日(日) 年間第13主日 ルカによる福音書9章51節-62節
イエスの貧しい人たちへの関わりは、神が賛美されるためだ。神を賛美するとは、神が神とされること、即ち、誰もが大事にされること、飢えや病気、差別や暴力から解放されることだ。「主の祈り」のみ名が賛美されることは毎日のパンが与えられることと言うように。 さて、その働きは、神との契約を交わす者にとっては忠実に生きることだ。それ故に、旧約の預言者たちは古代イスラエル王国の指導者たちのその背反を見抜き、回心を叫んだ。しかし、指導者たちは耳を閉じ、彼らを迫害し、命を狙った。イエスは当時のユダヤ教指導者たちをあからさまに糾弾したのではないが、その貧しい人たちへの関わりを脅威と彼らが感じたことは間違いないだろう。中世のフランシスコの働きに脅威を見た教皇庁のように。そのイエスに付いて行くとはイエスの受けた苦しみをも負うこととなる。 |
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