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2019年5月5日(日) 復活節第3主日 ヨハネによる福音書21章1節-19節
「復活」とは、神がイエスを死から起き上がらせたように、死の淵にいた弟子たちをイエスが立ち上がらせ、新しく生まれ変わらせ、宣教に励んだことを物語っている。 今日の弟子たちとイエスとの出会いも、同様だ。イエスの刑死後、ガリラヤの故郷に戻り、生業に戻って、漁業に精を出していた。その彼らに、イエスが声を掛け、初めのように宣教に生涯を賭けさせたごとく、再度、彼らの新しい人生に進むよう招かれたのだ。再び、イエスは池に小石を投げ込んだのだ。静穏な生活に波紋を広げたのだ。 日曜日のミサ毎に、イエスは私たちに声をかけられ、生活に新風を送られる。私たちはその風を受けて飛びたてられるか、まさに、「復活」、立ち上がれるかを問われている。 |
2019年5月12日(日) 復活節第4主日 ヨハネによる福音書10章11-18節
イエスとの出会い、導きの想い起こしによって、絶望から立ち上がった弟子たち。彼らには新生であり、再出発、死からのエクソダス、脱出であった。まさに、エジプトの奴隷であったヘブライの民がモーセに導かれ脱出した故事に比べられる出来事であった。弟子たちは新生活をイエスの言葉と行いを指針として従う約束をイエスと約束を交わしたのであった。同じく、脱出したヘブライの民がモーセに示された神の言葉に従って、新しい共同体を造る約束をしたように。教会も復活祭を契約更新の時とし、難問山積みの社会へ飛び出して行こう。 |
2019年5月19日(日) 復活節第6主日 ヨハネによる福音書15章9-17節
神が子によって受けた「栄光」ては。「栄光」とは光り輝く状態と言う、従って、神が光り輝くのは神の支配の貫徹であるから、「平等」の実現、誰もが尊ばれる世界だ。イエスはそれを十字架刑死、弟子への洗足で示された。両者とも、神に背いた者へのゆるしを象徴している、イエスは弟子と「愛し合いの実践」の契約を交わされた。 弟子たちは、新しく生きなおす証しとして、その契約のもと、平等世界の実現を目指したのだ。神の栄光は人の働きなしでは、絵に描いた餅で光り輝かないのだ。 |
2019年5月26日(日) 復活節第6主日 ヨハネによる福音書14章23節-29節
ヨハネ福音書ではイエスと父である神の一体性が、今日の17章だけでも何度も語られる。 「彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。」(17,6) 「わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。」(17,7) 「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。」(17,10) 「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように。」(17,21) 更に、イエスはこの世から神のもとへ帰るに当たって、弟子との一体性を語る。と言うのは、弟子たちの宣教はイエス自身の言葉と働きそのものだ、と説明したいから。 それでは、イエスと神が一体とは何か。また、弟子との一体とは何を指すのか。まず、人間は神を見ることも触れることも出来ないので、認識不可能だ。しかし、弟子や原始キリスト教では、イエスに神を見た、と言う。何を指してそう言うのか。 イエスが過ぎ越し祭の食事の席で、弟子たちに命じた新しい掟、「互いに大切にする」こと、即ち、足を洗い合え、の言葉に象徴されるのではないか。神は人間が本来あるべき姿、「助け合う」、共生から外れて、他者を奴隷として扱う、支配する偽りに捕らわれた人間を真理に生きなおすように生き方の指針を与えられた。イエスはそれに真摯に従った。世間から排斥されて、十字架刑死してまでも。 そのイエスの神への忠実さに、人々は父なる神を見出したのではないだろうか。であるなら、弟子のイエスとの一体は同じようにイエスの言葉への忠実さに求められる。 教会が神、イエスの言葉を語っていると言うなら、人を大切にし、足を洗う、つまり、苦難にある他者の重荷を背負う人とならなければならない。 |
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