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2019年4月7日(日) 四旬節第5主日 ヨハネによる福音書8章1節-11節
イエスの宣教とは、つまり、その生涯は貧困、病気などの苦難を負わされた人たちとの関わりであった。何故なら、神の「だれの死をも喜ばない」(参照 エゼキエル18・30-32)と言う慈しみが苦難の人たちの人生を幸いにするものと信じていたからだ。そのために、この世的価値、富、力、地位、それらは、人を強者と弱者、富者と貧者に分断し、後者を抑圧、搾取するものだから、頼らず、神のみ言葉、すなわち、人を平等、自由にする言葉のみに従った。イエスは苦難の人たちに寄り添い、強者たちには神に立ち帰るよう叫んだ。 しかし、罪を指摘された強者たちはイエスを許さなかった。イエスを排除し、処刑した。『放蕩息子』、『姦淫の罪を犯した女性』の物語は、それを示している。兄や女性を捕らえた男たちは父のやり方、態度、言葉を素直には受け入れられず、反発し、つには、憎んだであろう。弟、女性の立場に立ったイエスは兄、有力な男性たちから見れば、体面を傷つけられ、許しがたい、社会の秩序を破る者であり、非難、断罪される者でしかなかった。彼らの前、世間的にはイエスは無力でしかなかった。『荒れ野の誘惑』物語における試みる者には神の言葉以外には何の力も発揮しなかったように。このように、四旬節の福音はイエスの受難が何であったのか徐々に教えてる。 |
2019年4月14日(日) 受難の主日(エルサレム入城の福音) ルカによる福音書19章28節-40節
イエスは貧しい人々の人生が幸いになるように関わられた。それをこの世的力、富、権力、地位に頼らず、神の言葉に従って行われた。典型的な例は、「放蕩息子」の譬えや「姦通の罪で捕らえられた女性」の話しに見られる。即ち、この世から罪人とされ、排斥され、断罪される人を受け入れ、共に歩む姿だ。その姿勢はこの世の正しい人、信仰深い人、地位あり権力を持つ者たちから、非難され追放され処刑される姿だ。その姿はイエスがエルサレムに「ろばに乗り」、マタイによれば「柔和な方」と呼ばれたことと一致する。さらに、十字架を背負って刑場へ行く姿とも重なる。イエスの姿とも重なる。 すなわち、「柔和」とは「優しい」「謙遜」の意ではなく、兄にののしられた父の姿、男たちから詰問される間中、地面にうつ伏せになって無言であったように、腰の曲がった重荷や苦難を負わされた、言わば、この世的には無力な惨めな無残な姿のこと。神の言葉従って貧しい人々と生きることは、決して、かっこいい、英雄的、美しい姿ではないのだけれど、それをホザンナ、神救いたまえ、と信じることがキリスト教なのだ。 |
2019年4月18日(木) 主の晩餐 聖木曜日 ヨハネによる福音書13章1-15節
イエスは過ぎ越し祭の祝いの食事の場で、弟子たちの足を洗った、と言う。もちろん、これは、イエスの生涯の象徴であろう。「洗足」は奴隷の仕事で、文字通り汚れを洗い流すことだ。イエスと貧しい人たちとの関わりは、「柔和」と呼ばれる共に苦難を担うことだった。それは、ある意味で決して報われない、むしろ、圧し潰され、捨てられる徒労でしかない。奴隷が懸命に洗足しても、当たり前のことで評価されなず、さらに、仕事が増えるだけのように。イエスが「放蕩息子」の父のように、また、「姦通で捕らわれた女性」の側に立たれても理解されず、社会秩序を乱す者として処刑されることと同様だ。 弟子との別れにあたって、イエスが洗足したのは、弟子たちの裏切りを背負うことを示すと同時に弟子たちにも「柔和な」者、洗足する者になれ、と残したのだ。 |
2019年4月19日(金) 聖金曜日 主の受難 ヨハネによる福音書18章1節-19章42節
イエスが過ぎ越し祭のため、エルサレムへ入城したとき、群衆は「メシア(救い主)」、ローマ帝国の圧政からの解放者が来たと熱狂して迎えた。しかし、喉の根が乾かないうちに、イエスを十字架につけろと叫ぶ者となった。 何故か、群衆の日和見主義であろうか。日和見主義とは、「ある定まった考えによるものではなく、形勢を見て有利な側方に追従しよう」という考え方。かって、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」が流行ったように、孤立を恐れ、没個性的に、主体的に考えず、無責任に、多勢に従って行動することだ。 イエスが「メシア」とのガリラヤでの評判に乗り遅れまい、あわよくば、おこぼれを頂戴しようとの下心から熱狂したが、為政者たちから反乱者とされたとき、機を逃さず、何食わぬ顔で、為政者たちに乗り換えてしまうのだ。弱い立場の彼らが身を守る術であろうが、結局は、身を滅ぼすことになる。例えば、軍国主義に扇動された日本が破滅したように。 イエスを十字架刑で惨殺したのは、無論、ユダヤ・ローマの支配者たちが張本人だが、日和見主義の群衆が彼らを支持したからこそ、それが可能になったのだ。つまり、イエス殺害は一般人の私たちによるのだ。今、日本が戦争の出来る国になり、兵器爆買い、社会保障削減の流れに、無関心、何の声も上げないなら、労働者の過労死、弱者切り捨てに加担し、やがては、自らを滅ぼすことになろう。 イエスが「柔和な者」となり、苦難を強いられた人々の重荷を担がれたことを想い起こし、弱い立場の人たちと連帯することが、十字架称賛の意味ではないだろうか。 |
2019年4月21日(日) 復活の主日 日中のミサ ヨハネによる福音書20章1-9節
今から、73年前、愛する人、肉親を亡くし、焼土化した故郷を目の当たりにした日本人は、再び、その惨禍が起きないように、戦争放棄、武力不所持を決意し、平和世界の建設に貢献できる現憲法を制定した。 しかし、今や、再び、戦争の出来る国に変え、軍事費の増額は国民の生命、人権を脅かしている。何故、人はこうまで愚かになったのだろうか。敗戦により、無一文になった日本経済は早い復興を目指した。それを後押ししたのは、皮肉にも、何と戦争であった。不戦を誓い、戦争のない世界を目指して最出発したのもかかわらず、日本の経済成長は朝鮮戦争、ベトナム戦争の特需によって息を吹き返すこととなったのだ。従って、日本経済の落ち込む今、戦争による経済成長を企むのも止む無しか。天皇制の再利用もそれに繋がる。戦争のため死んでも、天皇によって靖国神社に祀られるのでよしとする戦前の価値観を甦らそうとしているのではないだろうか。経済成長による人間の幸福と言う亡霊に取りつかれた人には、平和な世界を望むべくもないのか。 イエスが目指した、すべての人がたいせつにされる、平等社会の実現は、金曜日、話した為政者、日和見主義の群衆、即ち、私たち利己主義に生きる者人々から拒否され、潰されてしまった。それを当たり前、この世の常、イエスはただの夢想家と切り捨てていいのだろうか。 否、ナイン、ノー、と叫ぶことがイエスを復活した、と言うことではないか。まさに、暗闇に灯る「小さな、小さな光」なのではないか。 |
2019年4月28日(日) 復活節第2主日 ヨハネによる福音書20章19節-31節
「復活」とは神がイエスを立ち上がらせたように、弟子たちの再出発の出来事を言う。それを今日の福音書の物語は、創世記の創造記事を思い出させる。つまり、弟子たちの再出発は創造なのだ、と。 週の初めの日とは、創造の『初め』だ。弟子たちの絶望はまさに『混沌』。立ち上がる術をどこにも見出せない暗黒にいた。そこに、神の霊が混沌に働きかけ、光と闇を分けたように、イエスが光となってすべてを明らかにした。弟子たちがイエスの生涯、つまり、「平和」、「シャローム」の実現に奔走した一生を思い起こしたとき、イエスは光となって弟子たちは暗闇から立ち上がることが出来た。 イエスは貧しい人々が幸いになるよう働きかけた。つまり、平等な社会、「シャローム」の実現だった。神は、「お造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは。極めて良かった」と言った世界、シャロームを人間に恵まれたのだった。 イエスは壊れた世界が再びシャロームの世界になるよう『平和があるように』と働かれた。弟子たちはイエスのシャロームへの働きを継続する者になることに目覚め、暗黒から脱出、つまり、新しく創造されたのであった。これはまた、ミサの出来事だと言える。神に反し罪人になった私たちがイエスと出会い、「平和の使徒」としてこの世界に派遣されることに。 |
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