ももちゃんの一分間説教



今週の一句
花郷や トンネル抜ければ 見えんかな

―もとゐ―


 2019年4月7日(日)
 四旬節第5主日

 ヨハネによる福音書8章1節-11節

8,1 〔そのとき、〕イエスはオリーブ山へ行かれた。
8,2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
8,3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8,4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
8,5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
8,6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
8,7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8,8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
8,9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
8,10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
8,11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 イエスの宣教とは、つまり、その生涯は貧困、病気などの苦難を負わされた人たちとの関わりであった。何故なら、神の「だれの死をも喜ばない」(参照 エゼキエル18・30-32)と言う慈しみが苦難の人たちの人生を幸いにするものと信じていたからだ。そのために、この世的価値、富、力、地位、それらは、人を強者と弱者、富者と貧者に分断し、後者を抑圧、搾取するものだから、頼らず、神のみ言葉、すなわち、人を平等、自由にする言葉のみに従った。イエスは苦難の人たちに寄り添い、強者たちには神に立ち帰るよう叫んだ。

 しかし、罪を指摘された強者たちはイエスを許さなかった。イエスを排除し、処刑した。『放蕩息子』、『姦淫の罪を犯した女性』の物語は、それを示している。兄や女性を捕らえた男たちは父のやり方、態度、言葉を素直には受け入れられず、反発し、つには、憎んだであろう。弟、女性の立場に立ったイエスは兄、有力な男性たちから見れば、体面を傷つけられ、許しがたい、社会の秩序を破る者であり、非難、断罪される者でしかなかった。彼らの前、世間的にはイエスは無力でしかなかった。『荒れ野の誘惑』物語における試みる者には神の言葉以外には何の力も発揮しなかったように。このように、四旬節の福音はイエスの受難が何であったのか徐々に教えてる。     
今週の一句
俯けば 海花に満ち 芝桜

―もとゐ―


 2019年4月14日(日)
 受難の主日(エルサレム入城の福音)

 ルカによる福音書19章28節-40節

19,28 〔そのとき、〕イエスは先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。
19,29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、
19,30 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。
19,31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
19,32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。
19,33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。
19,34 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。
19,35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。
19,36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
19,37 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
19,38 「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」
19,39 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。
19,40 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

 イエスは貧しい人々の人生が幸いになるように関わられた。それをこの世的力、富、権力、地位に頼らず、神の言葉に従って行われた。典型的な例は、「放蕩息子」の譬えや「姦通の罪で捕らえられた女性」の話しに見られる。即ち、この世から罪人とされ、排斥され、断罪される人を受け入れ、共に歩む姿だ。その姿勢はこの世の正しい人、信仰深い人、地位あり権力を持つ者たちから、非難され追放され処刑される姿だ。その姿はイエスがエルサレムに「ろばに乗り」、マタイによれば「柔和な方」と呼ばれたことと一致する。さらに、十字架を背負って刑場へ行く姿とも重なる。イエスの姿とも重なる。

 すなわち、「柔和」とは「優しい」「謙遜」の意ではなく、兄にののしられた父の姿、男たちから詰問される間中、地面にうつ伏せになって無言であったように、腰の曲がった重荷や苦難を負わされた、言わば、この世的には無力な惨めな無残な姿のこと。神の言葉従って貧しい人々と生きることは、決して、かっこいい、英雄的、美しい姿ではないのだけれど、それをホザンナ、神救いたまえ、と信じることがキリスト教なのだ。 
今週の一句
春嵐 おニュースーツ舞い 入社式

―もとゐ―


 2019年4月18日(木)
 主の晩餐 聖木曜日

 ヨハネによる福音書13章1-15節

13,1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
13,2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
13,3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
13,4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13,5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
13,6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
13,7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
13,8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
13,9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
13,10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
13,11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
13,12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
13,13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
13,14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
13,15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

 イエスは過ぎ越し祭の祝いの食事の場で、弟子たちの足を洗った、と言う。もちろん、これは、イエスの生涯の象徴であろう。「洗足」は奴隷の仕事で、文字通り汚れを洗い流すことだ。イエスと貧しい人たちとの関わりは、「柔和」と呼ばれる共に苦難を担うことだった。それは、ある意味で決して報われない、むしろ、圧し潰され、捨てられる徒労でしかない。奴隷が懸命に洗足しても、当たり前のことで評価されなず、さらに、仕事が増えるだけのように。イエスが「放蕩息子」の父のように、また、「姦通で捕らわれた女性」の側に立たれても理解されず、社会秩序を乱す者として処刑されることと同様だ。

 弟子との別れにあたって、イエスが洗足したのは、弟子たちの裏切りを背負うことを示すと同時に弟子たちにも「柔和な」者、洗足する者になれ、と残したのだ。
今週の一句
森は萌え 花咲き出でし 山路行く

―もとゐ―


 2019年4月19日(金)
 聖金曜日 主の受難

 ヨハネによる福音書18章1節-19章42節

18,1 〔夕食のあと、〕イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。
18,2 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。
18,3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。
18,4 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。
18,5 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
18,6 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
18,7 そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。
18,8 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」
18,9 それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。
18,10 シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。
18,11 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
18,12 そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、
18,13 まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。
18,14 一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
18,15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、
18,16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。
18,17 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。
18,18 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
18,19 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。
18,20 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。
18,21 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
18,22 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。
18,23 イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」
18,24 アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
18.25 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。
18,26 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
18,27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
18,28 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。
18,29 そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。
18,30 彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。
18,31 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。
18,32 それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。
18,33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
18,34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
18,35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
18,36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
18,37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
18,38 ピラトは言った。「真理とは何か。」
ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。
18,39 ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」
18,40 すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。
19,1 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。
19.2 兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、
19,3 そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。
19,4 ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」
19,5 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。
19,6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」
19,7 ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
19,8 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、
19,9 再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。
19,10 そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」
19,11 イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
19,12 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
19,13 ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。
19,14 それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、
19,15 彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。
19,16 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。
こうして、彼らはイエスを引き取った。
19,17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
19,18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
19,19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
19,20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
19,21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。
19,22 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
19,23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
19,24 そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
19,25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
19,26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
19,27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
19,28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
19,29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
19,30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
19,31 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。
19,32 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。
19,33 イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。
19,34 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
19,35 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
19,36 これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。
19,37 また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
19,38 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。
19,39 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。
19,40 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。
19,41 イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。
19,42 その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。

 イエスが過ぎ越し祭のため、エルサレムへ入城したとき、群衆は「メシア(救い主)」、ローマ帝国の圧政からの解放者が来たと熱狂して迎えた。しかし、喉の根が乾かないうちに、イエスを十字架につけろと叫ぶ者となった。

 何故か、群衆の日和見主義であろうか。日和見主義とは、「ある定まった考えによるものではなく、形勢を見て有利な側方に追従しよう」という考え方。かって、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」が流行ったように、孤立を恐れ、没個性的に、主体的に考えず、無責任に、多勢に従って行動することだ。

 イエスが「メシア」とのガリラヤでの評判に乗り遅れまい、あわよくば、おこぼれを頂戴しようとの下心から熱狂したが、為政者たちから反乱者とされたとき、機を逃さず、何食わぬ顔で、為政者たちに乗り換えてしまうのだ。弱い立場の彼らが身を守る術であろうが、結局は、身を滅ぼすことになる。例えば、軍国主義に扇動された日本が破滅したように。

 イエスを十字架刑で惨殺したのは、無論、ユダヤ・ローマの支配者たちが張本人だが、日和見主義の群衆が彼らを支持したからこそ、それが可能になったのだ。つまり、イエス殺害は一般人の私たちによるのだ。今、日本が戦争の出来る国になり、兵器爆買い、社会保障削減の流れに、無関心、何の声も上げないなら、労働者の過労死、弱者切り捨てに加担し、やがては、自らを滅ぼすことになろう。

 イエスが「柔和な者」となり、苦難を強いられた人々の重荷を担がれたことを想い起こし、弱い立場の人たちと連帯することが、十字架称賛の意味ではないだろうか。
今週の一句
麗らかな 夢みて楽し 苗選び

―もとゐ―


 2019年4月21日(日)
 復活の主日 日中のミサ

 ヨハネによる福音書20章1-9節

20,1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20,2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
20,3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
20,4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
20,,5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
20,6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20,7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
20,8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
20,9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

 今から、73年前、愛する人、肉親を亡くし、焼土化した故郷を目の当たりにした日本人は、再び、その惨禍が起きないように、戦争放棄、武力不所持を決意し、平和世界の建設に貢献できる現憲法を制定した。

 しかし、今や、再び、戦争の出来る国に変え、軍事費の増額は国民の生命、人権を脅かしている。何故、人はこうまで愚かになったのだろうか。敗戦により、無一文になった日本経済は早い復興を目指した。それを後押ししたのは、皮肉にも、何と戦争であった。不戦を誓い、戦争のない世界を目指して最出発したのもかかわらず、日本の経済成長は朝鮮戦争、ベトナム戦争の特需によって息を吹き返すこととなったのだ。従って、日本経済の落ち込む今、戦争による経済成長を企むのも止む無しか。天皇制の再利用もそれに繋がる。戦争のため死んでも、天皇によって靖国神社に祀られるのでよしとする戦前の価値観を甦らそうとしているのではないだろうか。経済成長による人間の幸福と言う亡霊に取りつかれた人には、平和な世界を望むべくもないのか。

 イエスが目指した、すべての人がたいせつにされる、平等社会の実現は、金曜日、話した為政者、日和見主義の群衆、即ち、私たち利己主義に生きる者人々から拒否され、潰されてしまった。それを当たり前、この世の常、イエスはただの夢想家と切り捨てていいのだろうか。

 否、ナイン、ノー、と叫ぶことがイエスを復活した、と言うことではないか。まさに、暗闇に灯る「小さな、小さな光」なのではないか。
今週の一句
軒先の 白ハナミズキ 天に向かい

―もとゐ―


 2019年4月28日(日)
 復活節第2主日

 ヨハネによる福音書20章19節-31節

20,19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20,20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20,21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20,22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20,23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
20,24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20,25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20,26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20,27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20,28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20,29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
20,30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
20,31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 「復活」とは神がイエスを立ち上がらせたように、弟子たちの再出発の出来事を言う。それを今日の福音書の物語は、創世記の創造記事を思い出させる。つまり、弟子たちの再出発は創造なのだ、と。

 週の初めの日とは、創造の『初め』だ。弟子たちの絶望はまさに『混沌』。立ち上がる術をどこにも見出せない暗黒にいた。そこに、神の霊が混沌に働きかけ、光と闇を分けたように、イエスが光となってすべてを明らかにした。弟子たちがイエスの生涯、つまり、「平和」、「シャローム」の実現に奔走した一生を思い起こしたとき、イエスは光となって弟子たちは暗闇から立ち上がることが出来た。

 イエスは貧しい人々が幸いになるよう働きかけた。つまり、平等な社会、「シャローム」の実現だった。神は、「お造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは。極めて良かった」と言った世界、シャロームを人間に恵まれたのだった。

 イエスは壊れた世界が再びシャロームの世界になるよう『平和があるように』と働かれた。弟子たちはイエスのシャロームへの働きを継続する者になることに目覚め、暗黒から脱出、つまり、新しく創造されたのであった。これはまた、ミサの出来事だと言える。神に反し罪人になった私たちがイエスと出会い、「平和の使徒」としてこの世界に派遣されることに。 


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