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2019年3月3日(日) 年間第8主日 ルカによる福音書6章39節-45節
人は一人でいるのは良くない、彼に合う相応しい助け手を創ろうと神は、もう一人の人を創ったと創世記にある。それは、一人では生きられないことを実感すると分かる。しかし、他方、勝手なもので、人を煩わしいと思うこともある。特に、意見、考えの異なるとき。「合う、相応しい」と訳された語は向き合う、対立する意味だと言われる。 聖書は正直に人間を見ている。この対立し合いながらも、乗り越えて、助け合う存在になることを聖書は願うのだ。そのためには、慈しみ深い神、絶対者の前に生きることを忘れないように。恩を知らない者、悪人にも情け深い神の前に立つとき、自己の弱さ、罪深さを思い知らされ、何を偉そうにしているのかと、決して、他者を責め、断罪する資格のないことを突き付けられる。 園の中央の食べてはならない実とは他者を責め、罪に定める人、つまり、神になってはならない、とのこと。絶対者、神は罪深い己をそれでも、生命を与え、水、食料、太陽を下さるのだ。他者を裁くまえに、まず、自己を神の前に立てよう。沈黙を与えられる。 |
2019年3月10日(日) 四旬節第1主日 ルカによる福音書4章1節-13節
イエスは神の言葉に従って生きようとした。けれど、この世では、神の言葉より金の言葉が幅を利かせる。現代の日本政治はその言葉に盲従している。人命や自然環境より利益第一を。原発稼働や辺野古基地建設、カジノ誘致は「石をパンに変」えることだ。社会保障より軍拡は「飛び降りてみろ」だ、利益のためならトランプの奴隷でもかまわないは「全世界と引き換えに悪魔跪拝」となる、等。 しかし、イエスは人を虜にする金の欲望を神の言葉で制御した。飢えた者が食べられるようにパンを分けた。路上で倒れた人には労力と金銭を分けられた。この世の支配者になるより十字架刑死を。 この世の支配者たちが国民を棄民化している今、一人ひとりが大切にされるためイエスの受難の道を辿りなおして行こう。 |
2019年3月17日(日) 四旬節第2主日 ルカによる福音書9章28b節-36節
先週の「荒れ野の誘惑」物語ではイエスの宣教が何をしなかったかを示している。即ち、この世の価値とする富、権力、支配による宣教をしないことだ。 今日の「変容」物語りではイエスが誰であったかを示している。前半のガリラヤでの宣教は「貧しい人々への福音」として、困窮苦難の貧しい人々が希望と勇気を見出すメシアとして歓迎され、弟子たちもイエスにこの世の支配者になるにちがいないとの期待を持った、つまり、ガリラヤでは勝利者のイエスを描いている。しかし、イエスの宣教はこの世的成功ではなく、エルサレムでの受難、この世的敗北への旅であった、と言うのは、貧しい人々の徹底的関わりは反社会的とされ、支配者・富裕者側から弾圧されるのは世の常であったから。 それを、古代イスラエルの指導者モーセ、預言者エリヤに倣うイエスとして描いている。モーセは奴隷から自律した人になるため神と人との契約を仲立ちし、守るべき言葉を人々に伝えたが、民から再三の裏切りを受けた、エリヤはそれを徹底させるため、支配者階級に神への回心を告げる方であったが、弾圧も受けた。このように、両者とも神からの使命ゆえに苦難を負った人生となった。同様に、イエスは貧しい人々が幸いになるため十字架刑の苦難を負った。しかし、ルカ福音書ではイエスの受難はエルサレム体制、ガリラヤの農民を、政治・経済・宗教的搾取、支配、差別からの脱出、エクソダス、神の国への旅立ちと言われている。 今、世界各地の苦難を負わされている人々の闘いは、絶望に見えるけれど、イエスの後を行く者たちは将来への脱出として応援できる。 |
2019年3月24日(日) 四旬節第3主日 ルカによる福音書13章1節-9節
四旬節は、イエスに従う約束を新たにする、「回心」の時だ。そのイエスは「荒れ野の誘惑」で、試みる者に負けなかったのは、この世的価値にではなく、神の言葉、生き方の方向指示、例えば、飢えには分け合い、病には寄り添い、暴力には和解、によってであった。 イエスの十字架への道がそうであったように。「山上の変容」では、イエスは旧約のモーセとエリヤに例えられる人であり、キリスト者はイエスを神の言葉として聴き従えと招かれている。 今日の回心の呼び掛けは、エリヤであるイエスに聴け、を表している。エリヤは紀元前9世紀の人で、古代イスラエルの北王国で活躍した。そのころ、北王国(ガリラヤ地方の一大農業生産地を抱えている。)は経済的に繁栄し、格差が拡がり貧しい人たちが苦難を強いられていた。「ナボトのぶどう畑」の話し(列上21章)は有名だ。現代でなら、大企業が中小企業を乗っ取るような事だ。弱い農民ナボテの土地を王アハズが暴力的に奪ったことをエリヤが咎めて、アハズに回心を迫ったのだ。 同様に、イエスはガリラヤの農民たちを搾取し、差別するエルサレムの支配者、王、貴族、大金持ち、大祭司、ファリサイ派らに回心を迫った。エルサレムの支配者とは、現在の日本にいる私たちキリスト者だ。と言うのは、沖縄や福島を犠牲にし、世界の資源国を搾取し、物質的豊かさを享受しているからだ。エリヤやイエスの叫びを聴き、生活を改めることが「回心」の一歩となる。 |
2019年3月31日(日) 四旬節第4主日 ルカによる福音書15章1節-3節、11節-32節
四旬節はイエスの回心への叫びにこころを開くときだ。古代イスラエルのエリヤの叫びは為政者たちに届かず、エリヤを迫害し、ついには、王国を滅亡させることとなった。その後、南ユダ王国もイザヤはじめ預言者らの叫びに心閉ざし、同じく、滅亡、王や高官たちはバビロン捕囚となった。バビロンに連行された中にいた預言者エゼキエルは破局にもかかわらず、神に背き続けた自分らを生かされる神の慈愛を告げた。「『悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる」(エゼキエル18・30-32) このエゼキエルの叫びは放蕩息子の帰りを待ちわびている姿を表しているのではないか。今こそ、イエスの叫びに応えなければ、日本消滅、地球滅亡は差し迫っている。「今こそカネこそ自分だけ」から「平等・公平、連帯・民主主義」実現に回心しよう。 |
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