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2019年2月3日(日) 年間第4主日 ルカによる福音書4章21節-30節
ルカはイエスの神の国宣教が同朋であるユダヤ人には受け入れられず、異邦人に受け入れられたと考えた。従って、今日の箇所の郷里からイエスが拒否されたとは、それを意味していると思われる。 イエスの神の国宣教は、「貧しい者への福音」と呼ばれるように、ガリラヤの重税と律法に押し潰された人たちが立ち上がり(解放され)、自己の夢が実現し、人生が幸いに、その意味で神の国に生きられるよう働きかけるものであった。それは、熱心なユダヤ教徒(郷里の人たち)にとっては到底受け入れられなかった。彼らは律法に熱心な自分たちにこそ神の国が来ると思っていたのだ。 それに反し、イエスはよりによって、彼らから律法を守らない故に「罪人」とされ、神の国から締め出されるはずのガリラヤの貧しい人々に「神の国」があると言うのだから、我慢ならなかったのだ。(「ヨセフの子ではないか」)しかし、古代イスラエルの人々が神と契約した、「神の前では誰もが平等だ」を追求すること、出エジプトの目的に他ならなかった。イエスは神の言葉を守り、それを徹底して守ったのであった。熱心なユダヤ教徒らは神との契約を忘れ、困窮する同朋を見棄てていたのだ。現代の教会もイエスを追放しているかもしれない。 |
2019年2月10日(日) 年間第5主日 ルカによる福音書5章1節-11節
イエスは貧しい者への福音宣教に仲間を集めた。それは、ヘブライの人々が神ヤーウエの名のもとに、新しい共同体を始めたように、と言うのは、その共同体の成員が互いに神の言葉を忠実に守ることによって成り立つ共同体になるのだから。 イエスのその福音が神に受け入れられるためには、神の恵みにより与えられるのではなく、参加した人々が創り上げるしかないのだ。それ故、福音宣教は旅に例えられる。 イエスはその旅の仲間を集めるにあたって、その人の個性、能力を尊重した。ペテロのように「漁師」としての彼の能力、経験を大切にし、さらに、それをより高い理想へと伸ばそうとされた。「人をとる漁師にしよう」と。私たちもイエスの招きがある。しかし、はじめには、特別な才能は必要なくありのままで呼ばれる。もちろん、その後の成長、努力は必要となる。 |
2019年2月17日(日) 年間第6主日 ルカによる福音書6章17節20節-26節
「貧しい人々は、幸いである。」と訳されているところは、「幸い、貧しい人々」で、祝福の言葉で、「幸いあれ」との呼び掛けだ。 イエス当時のユダヤ教のファリサイ派では、神の祝福は律法を厳守する者に与えられると考えていた。もちろん、旧約聖書の根本である。神との契約に忠実な人に幸いある、と。(申命記6・3、詩編1、他) しかし、ファリサイ派はそれを極端に形式主義に変えてしまった。(例マルコ7)律法を守ろうとしても守れない貧者、病人、、遊女、徴税人、外国の人を「罪人」と断罪し、共同体の交わりから排除し、神の恵みから閉め出してしまっていた。そして、律法を厳守する自分たちこそ「幸い」と呼んでいたのだ。 彼らに対し、イエスはあなたたちが「幸い」の祝福が与えられるなら、ましてや、貧者、飢えた人、泣く人にこそ神の祝福がある、と私は断言する。(参照:田川健三『イエスという男』)親鸞の悪人正機説「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」を彷彿させる。 旧約聖書において、神に、つまり、律法に忠実な人とは貧しい人に心配る人のことだ。(例ヨブ31・13−23、詩編37・21、112・4、9)何となれば、神はすべての人に天を昇らせ、雨を降らせる方だから、その神に従う者は貧しい人々を虐げるはずがないから。イエスはそのことに気づかないファリサイ派に悔い改めを叫んだのだ。 衣食住足りてる教会が貧しい人たちに無関心であるなら、祝福は遠いだろう。 |
2019年2月24日(日) 年間第7主日 ルカによる福音書6章27節-38節
楽園にて共生するはずに創られた人間は、創造主の思いに背いて追放され、意のままにできない他者を敵とし殺害する争いの世界にしてしまった。 イエスの生きたガリラヤでは支配者から虫けらのように扱われ、飢え、裸で、病気になった人々が路上で倒れていた。他方、支配者たちは満腹し贅沢に遊び暮らしていた。それを眼前にしたイエスは叫ばずにはいられなかった。「幸い、貧しい者」「幸い、飢えた人たち」。そして、「災い、富める者」「災い、満腹した者」と。 しかし、イエスは富者を断罪するだけでは状況はむしろ悪化することを見抜いていた。むしろ、更なる暴力による弾圧を。イエスは富者たちを変える方法を考えた。それは、神にならうことであった。即ち、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いから。あなたがたの父が憐れみ深いようにあなたがたも憐れみ深い者になれ」。力振るう者には無抵抗を、求める者には惜しみなく与えることを虐げられた者に訴えられた。現代、暴力の蔓延する世界にあって、イエスの呼び掛けに応えて行くしかないのでは。 |
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