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2019年1月1日(土) 神の母聖マリア ルカによる福音書2章16節-21節
長い旅を強いられ家畜小屋で出産せざるを得なかったヨゼフ、マリアたちは孤独と寒さ、不安で如何ほど心細かったことだろう。しかし、その彼らに想いがけなく、羊飼いたちが訪れてくれた。彼らもまたその境遇は苦難を強いられ、社会からは差別、排除されていた人たちであった。その彼らとの出会い、交わり、は双方に何と喜びであり、力づけられたことであろう。 神の呼びかけに応えること、つまり、この世の価値にではなく、神のみ旨、分かつこと、仕えること、ゆるすこと、まさに、平和の世界を創ることだ。けれど、それは、平坦な道ではない。キング牧師のように十字架の道となる。故に、孤独では倒れてしまう。仲間が必要だ。マリア、ヨゼフと羊飼いたちは飼い葉の幼子イエスにおいて出会い、仲間となった。その意味でも、イエスは平和の礎だ。新年の初めに、イエスにおいて平和の使徒となるよう誓いを新たにしよう。 |
2019年1月6日(日) 主の公現 マタイによる福音書2章1節-12節
マタイはベツレヘムの幼子を占星術の学者たちが訪問したことによって、イエスがユダヤの王だけではなく、全世界の王であることを示した。つまり、イエスの生き方は普遍的な真理であると言うこと。どの時代、どこの地域において倣う模範、先行者と言える。 どうしてか、マタイにとって、イエスは律法、旧約の成就者だ。つまり、イエスは神との契約を守り生きたのであった。神の国(支配)に生きたため、貧者、病人、被差別者が大切にされるよう、非暴力、和解に身を以て生きたのだ。対照的にマタイは学者たちにヘロデ、ユダヤ人ではなく、権力と富を守るため政敵を虐殺した、に向かって言わせた、「ユダヤ人の王はどこですか。」と。イエスを万民の王と祝う公現節で、私たちは小さい人々を顧みない政治に対しハッキリ『ノー』と叫び、彼らと連帯の道を歩まねばならない。 |
2019年1月13日(日) ルカによる福音書3章15〜16節、21〜22節
イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことは事実だ。教会がイエスを「神」と信じるには都合が悪いにも関わらず、隠すこともできない周知の事実であったのだ。 では、何故、イエスは洗礼を受けたのか。四福音書にはその説明があるが、如何にも護教的だ。イエスは出直したかったのではないか。洗礼は水に沈められることから、再生の象徴だ。イエスは新たな出発を前に、過去の清算、回心、即ち、神との契約を新たに結び直し、以降、神のことば、神と人々に仕えて生きる決意をしたのではないか。 私たちは聖堂に入る、「聖水」を身に振りかける。それはイエスと同じように、出直し、回心し、神との契約に生きる決心をすることを意味しているのではないだろうか。 |
2019年1月20日(日) 年間第2主日 ヨハネによる福音書2章1節-11節
ヨハネ福音書には「水」が象徴的に使われている。サマリアの井戸での女性との対話では、水を「渇かない」「永遠の命に至る」ものと呼ばれている。つまり、水は神の恵であり、(天よ 露を滴らせよ、雲よ 正義を注げ。イザヤ45・8)恵として与えられたイエスを神のことばとして、「永遠」「真理」「命」へ導く者と考えられている。 今日のカナの婚宴では、まさに、イエスと言う神の恵が水となって汲めども尽きない酒と変わり、婚宴、つまり、神の支配の喜びを祝ったと語られている。格差の拡がりにより出口の見えない今日、誰もが大切にされ、命の輝きを喜び合うために、イエスから学び続けて行きたい。 |
2019年1月27日(日) ルカによる福音書4章14〜21節
イエスは洗礼者ヨハネから回心の洗礼を受けた。イエスは大工の倅として、父親についてナザレ村の住人の各家を回って仕事をした。その時、彼が目にしたのは村の人々の困窮した暮らしであった。重税と律法の重荷に潰され飢え、渇き、病み、裸の極貧の暮らしであった。 既成のユダヤ教では彼・彼女らを救うことはできず、むしろ、「罪人」とレッテル貼りして見捨てるだけであった。イエスは神に尋ね、つまり、聖書を読み、神の答えを待った。そして、得た。神は人生を苦痛にするのではなく、カナの「婚宴」のような人生を喜び感謝するものとして与えてくれたはずだ、と。 よって、以後の人生を神の言葉に応えるための決意として、即ち、回心の洗礼を受けたのだ。神への応答は、カナの婚礼のような派手な「奇跡」を起こすのではなく、「わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2,4)の言葉のように、地道にガリラヤの困窮する人々のところへ出かけ手を伸ばし、立ち上がらせ、仲間を集めて行ったのだった。まさに、「霊」、つまり、神の言葉に導かれ、神の言葉に基づき、具体的働きを為したのだ。 |
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