ももちゃんの一分間説教



今週の一句
無人駅の 降車リュックの群れ 紅葉狩り

―もとゐ―


 2018年12月2日(日)
 待降節第1主日

 ルカによる福音書21章25節-28節、34節-36節

21,25 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
21,26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。
21,27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
21,28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
21,34 放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。
21,35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。
21,36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

 イエスの「神の国」宣教は、当時の終末論の影響があり、世の終わりがすぐにでも到来すると信じた。ユダヤ教では世の終わりには審判が行われ、裁きを受けた者は永遠の生命と永遠の滅びに分けられると考えられていた。イエスの死後、キリスト教はそれを受け継ぎ、最期までキリストに従い、神のみ旨に応えた人は裁き主キリストの再臨の際、永遠の命を与えられるとし、信者を励ました。2000年後に生きる現代の私たちには終末の審判をどうのように考えたらよいのか。

 人は死に際し、何を望むのか。出来たら、感謝されつつ、あの世に旅立とうと思うのではないか。であるなら、残された人たちが感謝する生き方をしなければならない。イエスを後々まで伝えた人々は、イエスとの出会い、関わりが大きい人生の転換、喜び、をもたらしたことへの感謝があったのではないか。盲人で物乞いのバルティマイが立ち上がり踊りだしイエスに付いて行ったように。イエスを伝えられる生になろう。
今週の一句
雨の朝 銀杏紅葉濡れ 眼明き

―もとゐ―


 2018年12月9日(日)
 待降節第2主日

 ルカによる福音書3章1節-6節

3,1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、
3,2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。
3,3 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
3,4 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。
3,5 谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、
3,6 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

 ルカ福音書では洗礼者ヨハネは「預言者」と言われてる。(幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。ルカ1,76)

 まず、旧約聖書の預言書では、必ず、その預言者の活動した時代を記している。例えば、(テコアの牧者の一人であったアモスの言葉。それは、ユダの王ウジヤとイスラエルの王ヨアシュの子ヤロボアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて示されたものである。(アモス1,1)アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。)、他。

 つまり、ルカはそれを踏襲したことになる。しかし、それは、聖書の理解には欠くことのできない情報を与えてくれる。聖書が無時間、無空間で書かれた机上の空想や「癒し、慰め」の言葉ではなく、具体的な時と場所で書かれた、即ち、特定の政治経済社会問題への取り組みを書いていることが分かる。王の名前が列挙されているのは、その時代の政治、社会状況が神に背反しているので預言者が告発しているのだ。アモスもイザヤも共に王たち国の支配者の貧しい人々への搾取による格差拡大社会的不正義を告発した。では、ルカは洗礼者ヨハネの「荒野の声」、悔い改めの叫びは何に向けられているのか。

 「パックスロマーナ」と呼ばれたローマ帝国の圧倒的軍事力を背景としたローマ帝国やユダヤ王ヘロデの圧制、大祭司たちユダヤ社会支配層の無力下、下層の民の疲弊。困窮化し、飢え、病気、路上に倒れる姿に対しヨハネは支配者に「悔い改め」神に立ち返ることを叫んだのだ。ヨハネをイエスの先達とした教会は民衆の代弁者にならなければ。    
今週の一句
裸木や 出迎え嬉し 無人の駅

―もとゐ―


 2018年12月16日(日)
 待降節第3主日

 ルカによる福音書3章10節-18節

3,10 〔そのとき、群衆はヨハネに、〕「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
3,11 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
3,12 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。
3,13 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。
3,14 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。
3,15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
3,16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
3,17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
3,18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。

 洗礼者ヨハネの「悔い改めよ」の叫び声は、民を虐げている為政者に向けられたものだ。

 しかし、「悔い改めの洗礼」にやってきた人たちは、虐げられた民であった。その彼らがヨハネの「悔い改めの実を結べ」に対し、「どうすればよいのですか」と応えたのには驚かされる。二枚の下着や食べ物のーある群衆、徴税人、兵士、何故なら、彼らもさらに下層の民を虐め、搾取していたことを自覚していたのではないか。

 ヨハネは言う、「お前たちも、上から虐められ、ぎりぎりの生活をしてるだろうけれど、お前たちも知っているだろうが、更に何重にも虐げられ悲惨な暮らしを強いられている人々がいる。その人たちを前に何を思うだろうか。」

 ヨハネは彼らに幼少から学んでいる旧約聖書の言葉を思い出させた。

 あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に大きく手を開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。…それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同朋のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。(申15,7-11)

 穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実も拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。(レビ19,9-10)

 しかし、ヨハネはそれを思い出し、神に立ち返り、政治をあらためて欲しいと願う肝腎の相手、ユダヤ教指導者たちの無視には怒り心頭であったろう。だからこそ、彼は叫んだ、「蝮の子らよ、神の怒りから免れないぞ」と。
今週の一句
枯らしや 負けずと並ぶ 麺屋の前

―もとゐ―


 2018年12月23日(日)
 待降節第4主日

 ルカによる福音書1章39節-45節

1,39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
1,40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
1,41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
1,42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
1,43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
1,44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
1,45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 ルカのクリスマス物語にはマリアの讃歌に見られる神の呼びかけに応える「卑しいはしため」の姿が描かれている。マリアは未婚の少女、エリザベツは年老いた不妊の女性、彼女たちは社会的、宗教的には認められない、無権利、差別された人たちだ。また、身重のマリアは夫のヨゼフと共に、ローマ帝国から難儀な移動を強制された。「救い主」の誕生を告げられた羊飼いたちも、その職により、不当な搾取と差別を受けている。この世的幸いから除外されている彼・彼女たちに、神は呼び出されるのだ。至極困難な神の心、即ち、誰もが大切にされるために働くよう彼・彼女らを召されたのだ。私たちも彼らと声を合わせ応えよう、「お言葉どおりなりますように」。 
今週の一句
雑踏の 客足止まる サンタの群れ

―もとゐ―


 2018年12月25日(日)
 主の降誕(夜半)

 ルカによる福音書2章1節-14節

2,1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2,2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2,3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2,4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2,5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2,6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2,7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
2,8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2,9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2,10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2,11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2,12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2,13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2,14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

 深夜、寒さに震えながら羊の番を寝ずにしている羊飼いたち、澄み切った夜空に輝く満天の星を見つめながら何を想っていたのだろう。彼らの多くは外国からの出稼ぎ労働者だ。言わば、よそ者、得体の知れない怪しい者、治安当局から見れば犯罪者予備軍。よって、彼らの働き場所は限られる、いわゆる3K(きつい、危険、汚い)であり、賃金の安い仕事しかない。地元の人々からは顧みられず、むしろ、厄介者、危険人物と白眼視されるだけの彼ら、重労働と極貧、孤立した彼らがより頼むのは満天の星だけだ。星は人を選ぶことなく彼らをもその暗黒から守っていてくれるからだ。満天の星から彼らは声を聞いた、あなたがたと同じ境遇にある両親に子どもが生まれた。戸外の家畜小屋にいるから、訪ねて行きなさい。心細さにあるその親子にとって、あなたがたの訪問は何と心強いことだろう、と。

 その親子や羊飼いたちは、難民の群れやキャンプに紛争地、貧困の地域にいる人々であり、そこに、神の子の誕生、つまり、神がいられるのだ。クリスマスの祝いは恵まれた私たちの目をそこへ向けさせる。
今週の一句
朝異変 子どもら見えず 冬休み

―もとゐ―


 2018年12月30日(日)
 聖家族

 ルカによる福音書2章41節-52節

2,41 〔イエスの〕両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。
2,42 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。
2,43 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。
2,44 イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが
2,45 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。
2,46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2,47 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。
2,48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
2,49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
2,50 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
2,51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。
2,52 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

 聖者伝説の一つ。私たちキリスト教徒の教祖様は子どもの時から神童であったと言いたいためのお話し。しかも、イエス様は「神の子」であるから生まれたときも尋常でなかったと、ありがたやありがたやのお話しもある。

 それはさておき、ユダヤ教では子どもにトーラーを教えるのは親の勤めであった。したがって、学校教育より前に子どもに教えた。そして単なる知識としてではなく、実践を教えた。トーラーは神の教え、掟とも言われ神の人へ提示された生き方の指針だ。学校教育に先駆けて子どもに教えると言うことは人としての基本、土台を据えることではないか。箴言1,7「主を畏れることは知恵のはじめ」、コヘレト12,1「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ.」

 翻って、キリスト教徒はまず学校教育を子どもに押しつけているのではないか。信仰生活より学校行事を優先しているからだ。ユダヤ教から受けつぐべきことではないか。


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