ももちゃんの一分間説教



今週の一句
梅雨休み 空茜さし ヒコーキ雲

―もとゐ―


 2018年7月1日(日)
 年間第13主日

 マルコによる福音書5章21節-43節

5,21 〔そのとき、〕イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
5,22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
5,23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
5,24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
5,25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
5,26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
5,27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
5,28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
5,29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
5,30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
5,31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
5,32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
5,33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
5,34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
5,35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
5,36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
5,37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
5,38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、
5,39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
5,40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
5,41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
5,42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
5,43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

 イエスは重荷を負わされた人から生命を取り戻し、立ち上がらせた、とガリラヤのイエスに出会った人たちはイエスをそう思った。イエスを主と呼ぶキリスト教会は苦難を負わされた人々のところへと出かけられるはずだ。シリアやアフリカからの難民、原発事故被害者、貧困の子どもたちのところへ。 
今週の一句
死刑執行 天の窓開き 梅雨豪雨

―もとゐ―


 2018年7月8日(日)
 年間第14主日

 マルコによる福音書6章1節-6節

6,1 〔そのとき、〕イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
6,2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
6,3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
6,4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
6,5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
6,6 そして、人々の不信仰に驚かれた。
〔それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。〕

イエスは苦難に喘いでいる人たちの傍らにおられ、彼・彼女らが自ら立ち上がれるように背中を押していた。ナザレの人たちは同じ郷里だからとイエスに甘えた、噂通りの神の子、治癒者ならおれたちにも気前よく奇跡をやってくれてあたりまえだろうと。人々の信仰は御利益的だった。しかし、期待に反しイエスは彼らに何もしなかった。いや、出来なかったのだ。なぜなら、苦難からの開放は当人の意識、決断、努力がなければなしえないから。イエスが助けてくれる、神がやってくれると依存していては成し得ない。イエスは声をかけ、手を差し伸べ、背中を押すしかできないのだ。助けを待っている人からはイエスは無力だから、役立たずで追い出すだけの者でしかなかったのだ。
今週の一句
初蝉や 騒がしき世間 脇に置き

―もとゐ―


 2018年7月15日(日)
 年間第15主日

 マルコによる福音書6章7節-13節

6,7 〔そのとき、イエスは〕十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、
6,8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
6,9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
6,10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
6,11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
6,12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
6,13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

 イエスはガリラヤ中を弟子たちと共に廻り、神の国の到来を告げた。つまり、神の国とは神を最終権威とした生き方、誰もが平等に尊重される人との関わり、社会が実現されることだ。そのためには、各自が神との契約を守り続けなければならない。

 しかし、ガリラヤでは、農民は飢え、裸、病気であり、「罪人」とされた。 徴税人や遊女は「汚れた者」として搾取、差別され、非人間的生活を余儀なくされていた。その原因である権力者、富める者らは現代と同じく、契約違反者であり「悪霊」と堕していたのだ。イエスの悔い改めよの叫びは彼らに向けられていた。今の私たちが苦しむ人の声に無関心であるなら、イエスの叫びは私たちに向けられる。
今週の一句
三日月や 猛暑日の宵 浮かぶかな

―もとゐ―


 2018年7月22日(日)
 年間第16主日

 マルコによる福音書6章30節-34節

6,30 〔そのとき、〕使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
6,31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6,32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
6,33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
6,34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

 イエスはガリラヤ民衆の悲惨な有様を見て「深く憐れんだ」と言う。

 「憐れむ」とは日本語では、可哀そう,気の毒に思う。同情するとの意味だ。原語のギリシャ語では「腸がよじれる様」を表すことから「深く憐れむ」と訳されている。他方、マルコ1・41の「深く憐れむ」を43節「厳しく注意した」が「鼻を鳴らしてガミガミ言った」との訳の可能性があることから、イエスはライ病者の叫びに応えられない自分の無力さに腹を立てた様と解釈する人もいる。イエスを憐れみ深い方と見るのか、あるいは、鋭い認識と分析から現状と自己へ憤慨し、黙ってられないと立ち上がった人と見るのか,好き嫌いが分かれるところだ。

 さて、イエスはガリラヤの貧しい人々の悲惨な姿を目の当たりにして、現状への怒りがメラメラと燃え上がったのではないか。同時に、この状況に、何も出来ない無力感に襲われ、「ちくしょー!!」と叫びたかったのではないか。 そこで、イエスは立ち止まらなかった。あの12年間長血を患った女性のように。
今週の一句
夕空や 七色変化 酷暑かな

―もとゐ―


 2018年7月29日(日)
 年間第17主日

 ヨハネによる福音書6章1節-15節

6,1 〔そのとき、〕イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。
6,2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
6,3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
6,4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
6,5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6,6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
6,7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
6,8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
6,9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
6,10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
6,11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
6,12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
6,13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
6,14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
6,15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

 いわゆる、「パンの増加の奇跡」物語りは、ここ、ヨハネ福音書では教会の「聖餐式」を意味している。と言うことは、聖餐式は閉じられたものではなく、開かれたものと言える。イエスと食事をするのは、選ばれた人ではない、人生の重荷を背負わされたすべての人たちだ。そして、平等に満腹したのだ。もともと、旧約聖書では神への捧げものは祭司の分を除いて、家族や寄留者、寡婦、孤児らと一緒に食することが命じられている。現行のカトリック教会の「聖餐式」を見直すべきではないか。


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