|
2018年6月3日(日) キリストの聖体 マルコによる福音書14章12節-16節、22節-26節
イエスは過ぎ越しの祝い(ヘブライの人々がエジプトでの奴隷状態から解放されたことを祝う)の食事を弟子たちとした。ユダをはじめ弟子たちは、その後、イエスを裏切ったけれど、その彼らと祝った。それは、イエスが「罪人」や徴税人と食事をしたことと一貫性がある。つまり、イエスが神の救いを、むしろ、当時のユダヤ教から排斥、断罪された人と祝ったのだ。それを記念し、世の終わりまで伝える教会の祝いも「小さくされた人々」への開かれたものでなければならないでしょう。 |
2018年6月10日(日) 年間第10主日 マルコによる福音書3章20節-35節
イエスは神の息を深く吸い込み胸にしまい込んだ。つまり、神の言葉である旧約聖書を十二分に読み込み、考え、判断し、生きようとし、家族を離れ、ガリラヤの貧しい人々と関わられた。しかし、その生き方は家族には理解されず、狂人と見なされ、また、ユダヤ教の正統派からは「悪霊憑き」と呼ばれ、排斥された。イエスへの信従はマイノリティーとの関わりだ。現実社会では理解されず、変人扱いされる故、孤独だ。イエスに従う教会は孤独な者たちの新たな共同体とならなければならない。 |
2018年6月17日(日) 年間第11主日 マルコによる福音書4章26節-34節
イエスは家族や宗教指導者から変人、悪魔憑きと非難されながらも、黙々とガリラヤの貧しい人たちと関わられた。置き去りにされた人々との共生、つまり、神との契約に忠実に生きようとしただけだ。それは、農民の日々の働きと同じだと言う。決して、目立つ華々しい働きではなく、日照りや水不足、凶作、支配者の搾取、強奪も続く苦難の働きだ、しかし、農民は耕し蒔き続けるほかない。 誰がその苦難の農民と共にあるのか。沖縄やシリアの人々、障がい者の方達と共にいるのか。その答を求めて、イエスは地道に働き続けたのだ。 |
2018年6月24日(日) 洗礼者ヨハネの誕生 ルカによる福音書1章57節-66節、80節
聖書の登場人物は、おしなべて、世間的評価の低い、排斥された人々が多い。古代イスラエル人、先祖のヘブライ人はエジプトでの奴隷、彼らの国は国際政治に翻弄され、ついには、滅亡した。アブラハム、信仰の父であるが妻を人身御供した。モーセ、指導者であるが、若い時、エジプト人を殺害し、外国へ逃亡した。 女性ではタマル、義父ユダを騙して、子を作った。ハンナ、サムエルの母、長らく子ができず、みじめな日々を送った。等々。新約では、マリア、律法違反の婚約中に子ができた。ガリラヤの貧しい人々、飢え、病む者たち、遊女や徴税人。放蕩息子、サマリア人、ライ病者、等々。これらの社会的排除、不平等に扱われる人々をその苦難の人生から解放しようとしたのが神ヤーウエであり、イエスだった。 洗礼者ヨハネも同じく貧乏な下級祭司ザカリヤと不妊のエリザベトを両親として生まれた。そのヨハネがイエスを、つまり、「救い、解放」の先触れであったと聖書は告げている。苦難にある人々にこそ神の目が注がれ、働いていることに、教会は気づかねばならない。 |
|