ももちゃんの一分間説教



今週の一句
紫陽花や 花白くして 雨待ちぬ

―もとゐ―


 2018年6月3日(日)
 キリストの聖体

 マルコによる福音書14章12節-16節、22節-26節

14,12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
14,13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
14,14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
14,15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
14,16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
14,22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
14,23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
14,24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
14,25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
14,26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

 イエスは過ぎ越しの祝い(ヘブライの人々がエジプトでの奴隷状態から解放されたことを祝う)の食事を弟子たちとした。ユダをはじめ弟子たちは、その後、イエスを裏切ったけれど、その彼らと祝った。それは、イエスが「罪人」や徴税人と食事をしたことと一貫性がある。つまり、イエスが神の救いを、むしろ、当時のユダヤ教から排斥、断罪された人と祝ったのだ。それを記念し、世の終わりまで伝える教会の祝いも「小さくされた人々」への開かれたものでなければならないでしょう。
今週の一句

―もとゐ―


 2018年6月10日(日)
 年間第10主日

 マルコによる福音書3章20節-35節

3,20 [そのとき、]イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
3,21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
3,22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
3,23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
3,24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
3,25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
3,26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
3,27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
3,28  はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 
3,29  しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 
3,30  イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。 
3,31  イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 
3,32  大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、 
3,33  イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、 
3,34  周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 
3,35  神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」 

   
今週の一句
クチナシや 晴れ間の空を 輝かし

―もとゐ―


 2018年6月17日(日)
 年間第11主日

 マルコによる福音書4章26節-34節

4,26 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
4,27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
4,28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
4,29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
4,30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4,31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4,32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
4,33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。
4,34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

 イエスは家族や宗教指導者から変人、悪魔憑きと非難されながらも、黙々とガリラヤの貧しい人たちと関わられた。置き去りにされた人々との共生、つまり、神との契約に忠実に生きようとしただけだ。それは、農民の日々の働きと同じだと言う。決して、目立つ華々しい働きではなく、日照りや水不足、凶作、支配者の搾取、強奪も続く苦難の働きだ、しかし、農民は耕し蒔き続けるほかない。

 誰がその苦難の農民と共にあるのか。沖縄やシリアの人々、障がい者の方達と共にいるのか。その答を求めて、イエスは地道に働き続けたのだ。  


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