ももちゃんの一分間説教



今週の一句
花盛り 色濃き草木 風光り
―もとゐ―

 2018年5月6日(日)
 復活節第6主日

 ヨハネによる福音書15章9-17節

15,9 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
15,10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
15,11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
15,12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
15,13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
15,14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15,15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
15,16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
15,17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 ヨハネ福音書ではイエスと弟子、つまり、私たちとの関係を、色々に表現している。渇かない水、飢えないパンとそれを求める者、罪の奴隷から自由にする真理、良き羊飼いと羊、ぶどうの木とその枝、等々。そして、今回、イエスは私たちを僕ではなく、すべてを教えられ、守る友と呼んでいる。ここにも、「復活」がしたいからの蘇生ではなく、即ち、弟子たちはイエスから卒業、自立した者だと言うこと、何故なら、何をすべきかを既に教えられ、また、絶えず、イエスの言葉を考え、適応できる者になっているのだから。あらためて、聖書の学びを深めて行くことがイエスの復活に預かることを知ろう。 
今週の一句
万緑や 一つに染まり 山路行き


―もとゐ―


 2018年5月13日(日)
 主の昇天

 マルコによる福音書16章15-20節

16,15 〔そのとき、イエスは十一人の弟子に現れて、〕言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
16,16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
16,17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
16,18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
16,19 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
16,20 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。

 初めに、今日の箇所は、元来のマルコ福音書にはなく、後年、教会により編集付加されたことを指摘しておきます。

 マルコ福音書は紀元70年ごろに書かれたと言われます。所謂、「昇天」はパウロ(50年代)のフィリピ人の手紙にある『キリスト賛歌』に出てきます。『キリスト賛歌』は原始キリスト教団(30年〜)から伝えられた信仰と言われています。従って、各福音書のイエス・キリストは誰かの記述は、教会の信仰に基づいた記述で、歴史的なものではないと言うことです。

 つまり、「昇天」は『キリスト賛歌』にあるように、キリストの十字架刑死にまで自分を無にして神に従ったことゆえに、神からすべてのものが従う権力を与えられたことを意味します。そして、弟子への世界宣教の命令は、同じく、全世界の人々がイエスに従うよう宣教することに他なりません。しかし、それが、南米などの悲劇を生んだことを忘れないようにしましょう。

 さて、本日の箇所にはイエスの宣教によって新しい世界が到来すると言われています。「新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害をうけず、」これは、イザヤ書11章の自然と人が和解する理想状態を詠っているところです。野獣と幼子の共生のように。つまり、イエスの言葉に生きるとき弱肉強食の世界ではなく、万物との和解、」共生に生きることとなる、と言う素晴らしい祈りです。あらためて、この壮大な夢を実現するためイエスに学びましょう。 
今週の一句
田水張り 入るトラクター 稲立ちぬ

―もとゐ―


 2018年5月20日(日)
 聖霊降臨の主日

 ヨハネによる福音書15章26節-27節,16章12節-15節

15,26 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。
15,27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
16,12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
16,13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
16,14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
16,15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

 イエスはガリラヤの風に背を押され、ガリラヤの人々の中へ入って行った。そして、最期まで、その力を感じ、応えた。残された弟子たちも、息吹を受け、全世界へとイエスの記憶を伝えに出かけて行った。神の力、息吹、風は「聖霊」と呼ばれる。聖霊の働きに応える集団を教会と言う。 
今週の一句
みだれ髪 さざ波揺れる 新緑かな

―もとゐ―


 2018年5月27日(日)
 三位一体の主日

 マタイによる福音書28章16節-20節

28,16 〔そのとき、〕十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
28,17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28,18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28,19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28.20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 イエスとの出会い、交わり、信従は私たちを管理、競争社会の深淵から自由、自立した生き方へ方向転換させた。この喜びを分かち合うことを「宣教」と言うのだろう。イエスをより深く知るためにイエスが吸った父でう神の息、学んだ知恵である聖霊を旧約聖書から探求することは、その「宣教」に欠かせない。


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