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2018年4月1日(日) 復活の主日 日中のミサ ヨハネによる福音書20章1-9節
毎日のように、シリアやアフガニスタンでは空爆や自爆テロで、民間人、女性、子どもが何十人、何百人殺害されたと、悲惨なニュースが流れ続けている。もう今や、腸をえぐり取られるような衝撃的ニュースにもかかわらず、慣れっこになって、またかと思うぐらいになってしまった。 あるいは、11年の3月11日の東日本大震災とそれによる福島原発事故で自主避難を強いられた人々が、その風化と政府の無責任によって不自由な生活を抜けられない状況になりつつあることに、当初は深く同情していたけれど、今や、忘れ去っている。 毎日、空爆やテロの恐怖に怯え、食糧・水の欠乏のなかにあるシリア、等の女性・子どもたちは何を思って暮らしているのだろうか。明日の生活に展望を持てないなか、政府や心ない人からのバッシングに打ちのめされている避難者たちの思いは何であろうか。 復活祭を祝うキリスト教会の「イエスは甦り、死に打ち勝った」とのメッセージはシリアの子どもたち、避難者の子どもたちの悲痛な叫びにどう応えているのだろうか。 イエスは十字架刑死をどう受け止めたのか。神の御心への従順、人類を罪から救う、との言辞はキリスト教会の解釈、神学でしかない。イエス自身がどう受けとめたかは、福音書には書かれていない。書かれていることはその神学から書かれたにすぎない。イエスはシリアの子どもたちのように、何故、こんな目に遭わなければならないのかとヨブのように不条理の苦しみを神に訴えたかったのではないだろうか。「エロイ、エロイ、ラマサバクタニ」と。それを神の愛と呼ぶのは、高橋哲也氏の言う「犠牲のシステム」に教会は胡座をかいていることなのではないか。 復活祭を黙想するとは、シリアの子ども、避難者の子ども、その他の理不尽な苦難を背負わされている子どもたちの叫びにどう応えて行くのかをキリスト者に問いかけて来る時なのではないだろうか。 |
2018年4月8日(日) 復活節第2主日 ヨハネによる福音書20章19-31節
ヨハネ福音書では、人が永遠の生命、幸いに至るためには、神の言葉、イエスに従って生きることに招いている。何故なら、神がそれを欲するほど人をお大切にしている、と言う。 人はその招きに応えるか否かの決断をするしかない。と言うのは、福音書の薦めが真か儀かは誰も分からない。絶対権力を持ったローマ皇帝を価値とするのか、十字架刑死に至ったイエスの生きざまを価値あるとするのか、信じるしかない。まさに、「見ないで信じる者は幸い」なのだ。 |
2018年4月15日(日) 復活節第3主日 ルカによる福音書24章35-48節
絵本『丘のむこうに何がある』(E.A.エッカー/文 H.ヘイドゥク‐フート/絵 加藤常昭/訳 出版社: 日本キリスト教団出版局 )では、兄と妹が丘の上に立ち、あの丘の向こうには何があるのかと尋ねて行き、次は山の向こう、星の向こうと次々に探求の場を広げて行く話となっている。 弟子たちとイエスの出会いも同じだ。彼らは、復活したイエスが現れても、恐ろしくて幽霊だとしか思えなかった。つまり、その時、弟子たちは、復活したイエスを直接目撃した弟子はいなかったのだと言えるかもしれない。しかし、真にイエスを知る(出会う)ということは、ただ肉体的に見ることではなく、まさにイエスを信頼する心(信仰)《人間理性と言えるかも知れない》なのだ。つまり、この時から、弟子たちは、イエスの生涯を旧約聖書に遡ってまで、理解しようと必死に理解する努力を続けた。そして、遂にイエスが誰であったかのが分かった(得心)のだった。正に、ここに、イエスは弟子たちにとって、イエスは現実に「復活」されたのだと悟ったのだ。 (原文:竹谷 編集:菊池) |
2018年4月22日(日) 復活節第4主日 ヨハネによる福音書10章11-18節
私たちが「イエスが復活した」と言うのは、死体がむっくり起き上がったとの意味ではない。イエスの生きたように生きることを意味する。旧約の民が神を生き方の指針を与えた方とし、神と契約を交わして、その指針に生きようとしたことと同じだ。今日の箇所の、羊飼いと羊の譬えはそれを示す。イエスが生涯をかけて行こうとした道を私たちが進むとき、「生きていてよかった」と言えるのではないか。 |
2018年4月29日(日) 復活節第5主日 ヨハネによる福音書15章1-8節
聖書では、神と私たち人間の関係を契約と言う。よって、人は成人として対等に神に向き合う。神にすべてお任せ、と言う幼児ではない。それ故、人は自己の選んだことに責任を持つ。神の呼びかけに応えることよりも、この世の価値、富や力に従うならば、奴隷的生となることを。旧約聖書では神ヤーウェと契約することを、新約聖書では、イエス・キリストと契約することを勧めている。 先週の「良き羊飼いと羊」の譬えを使う、今週は、「ぶどうの木とその枝」の譬えをもちいて、それを説明している。枝はただしがみついているだけでは枝は実を付けられない。つけられるのは、木から養分、水分を吸収しなければならない。同じように 、イエスとの契約を守るには、イエスは救い主と礼拝するだけではなく、イエスの示された生き方の指針に従わねばならない。「互いに大切にしあう」ことがイエスの指針であり、私たちの実となる。 |
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