ももちゃんの一分間説教



今週の一句
旅立ちや 花の見送り 電車発ち

―もとゐ―


 2018年4月1日(日)
 復活の主日 日中のミサ

 ヨハネによる福音書20章1-9節

20,1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20,2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
20,3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
20,4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
20,,5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
20,6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20,7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
20,8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
20,9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

 毎日のように、シリアやアフガニスタンでは空爆や自爆テロで、民間人、女性、子どもが何十人、何百人殺害されたと、悲惨なニュースが流れ続けている。もう今や、腸をえぐり取られるような衝撃的ニュースにもかかわらず、慣れっこになって、またかと思うぐらいになってしまった。

 あるいは、11年の3月11日の東日本大震災とそれによる福島原発事故で自主避難を強いられた人々が、その風化と政府の無責任によって不自由な生活を抜けられない状況になりつつあることに、当初は深く同情していたけれど、今や、忘れ去っている。

 毎日、空爆やテロの恐怖に怯え、食糧・水の欠乏のなかにあるシリア、等の女性・子どもたちは何を思って暮らしているのだろうか。明日の生活に展望を持てないなか、政府や心ない人からのバッシングに打ちのめされている避難者たちの思いは何であろうか。

 復活祭を祝うキリスト教会の「イエスは甦り、死に打ち勝った」とのメッセージはシリアの子どもたち、避難者の子どもたちの悲痛な叫びにどう応えているのだろうか。

 イエスは十字架刑死をどう受け止めたのか。神の御心への従順、人類を罪から救う、との言辞はキリスト教会の解釈、神学でしかない。イエス自身がどう受けとめたかは、福音書には書かれていない。書かれていることはその神学から書かれたにすぎない。イエスはシリアの子どもたちのように、何故、こんな目に遭わなければならないのかとヨブのように不条理の苦しみを神に訴えたかったのではないだろうか。「エロイ、エロイ、ラマサバクタニ」と。それを神の愛と呼ぶのは、高橋哲也氏の言う「犠牲のシステム」に教会は胡座をかいていることなのではないか。

 復活祭を黙想するとは、シリアの子ども、避難者の子ども、その他の理不尽な苦難を背負わされている子どもたちの叫びにどう応えて行くのかをキリスト者に問いかけて来る時なのではないだろうか。
今週の一句
哀れなり 花々倒す 春嵐

―もとゐ―


 2018年4月8日(日)
 復活節第2主日

 ヨハネによる福音書20章19-31節

20,19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20,20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20,21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20,22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20,23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
20,24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20,25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20,26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20,27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20,28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20,29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
20,30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
20,31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 ヨハネ福音書では、人が永遠の生命、幸いに至るためには、神の言葉、イエスに従って生きることに招いている。何故なら、神がそれを欲するほど人をお大切にしている、と言う。

 人はその招きに応えるか否かの決断をするしかない。と言うのは、福音書の薦めが真か儀かは誰も分からない。絶対権力を持ったローマ皇帝を価値とするのか、十字架刑死に至ったイエスの生きざまを価値あるとするのか、信じるしかない。まさに、「見ないで信じる者は幸い」なのだ。 
今週の一句
音立てて 春眠覚えさす 朝嵐

―もとゐ―


 2018年4月15日(日)
 復活節第3主日

 ルカによる福音書24章35-48節

24,35 〔そのとき、エルサレムに戻った二人の弟子は、〕道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
24,36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
24.37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
24,38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
24,39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
24,40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
24,41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
24,42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
24,43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
24,44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
24,45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
24,46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
24,47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
24,48 あなたがたはこれらのことの証人となる。

 絵本『丘のむこうに何がある』(E.A.エッカー/文 H.ヘイドゥク‐フート/絵 加藤常昭/訳 出版社: 日本キリスト教団出版局 )では、兄と妹が丘の上に立ち、あの丘の向こうには何があるのかと尋ねて行き、次は山の向こう、星の向こうと次々に探求の場を広げて行く話となっている。

 弟子たちとイエスの出会いも同じだ。彼らは、復活したイエスが現れても、恐ろしくて幽霊だとしか思えなかった。つまり、その時、弟子たちは、復活したイエスを直接目撃した弟子はいなかったのだと言えるかもしれない。しかし、真にイエスを知る(出会う)ということは、ただ肉体的に見ることではなく、まさにイエスを信頼する心(信仰)《人間理性と言えるかも知れない》なのだ。つまり、この時から、弟子たちは、イエスの生涯を旧約聖書に遡ってまで、理解しようと必死に理解する努力を続けた。そして、遂にイエスが誰であったかのが分かった(得心)のだった。正に、ここに、イエスは弟子たちにとって、イエスは現実に「復活」されたのだと悟ったのだ。 
                                                              (原文:竹谷 編集:菊池)
今週の一句
ハナミズキ ひといろの街 彩りぬ

―もとゐ―


 2018年4月22日(日)
 復活節第4主日

 ヨハネによる福音書10章11-18節

10,11 〔そのとき、イエスは言われた。〕わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
10,12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
10,13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10,14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10,15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
10,16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
10,17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
10,18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

 私たちが「イエスが復活した」と言うのは、死体がむっくり起き上がったとの意味ではない。イエスの生きたように生きることを意味する。旧約の民が神を生き方の指針を与えた方とし、神と契約を交わして、その指針に生きようとしたことと同じだ。今日の箇所の、羊飼いと羊の譬えはそれを示す。イエスが生涯をかけて行こうとした道を私たちが進むとき、「生きていてよかった」と言えるのではないか。
今週の一句
大雨に 煙る湖 咲く躑躅

―もとゐ―


 2018年4月29日(日)
 復活節第5主日

 ヨハネによる福音書15章1-8節

15,1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15,2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15,3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15,4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15,5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
15,6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
15,7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
15,8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

 聖書では、神と私たち人間の関係を契約と言う。よって、人は成人として対等に神に向き合う。神にすべてお任せ、と言う幼児ではない。それ故、人は自己の選んだことに責任を持つ。神の呼びかけに応えることよりも、この世の価値、富や力に従うならば、奴隷的生となることを。旧約聖書では神ヤーウェと契約することを、新約聖書では、イエス・キリストと契約することを勧めている。

 先週の「良き羊飼いと羊」の譬えを使う、今週は、「ぶどうの木とその枝」の譬えをもちいて、それを説明している。枝はただしがみついているだけでは枝は実を付けられない。つけられるのは、木から養分、水分を吸収しなければならない。同じように 、イエスとの契約を守るには、イエスは救い主と礼拝するだけではなく、イエスの示された生き方の指針に従わねばならない。「互いに大切にしあう」ことがイエスの指針であり、私たちの実となる。 


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