|
2018年2月4日(日) 年間第5主日 マルコによる福音書1章29節-39節
ガリラヤ地方には病人が大勢いた。極貧ゆえの飢えからくる病であり、極度の恐怖からの精神的病であった。貧しいため、医者にはかかれなかった。当然、民間療法士に頼る他なかった。 イエスは彼・彼女たちの求めに応じざるを得なかった。イエスの誠実な振る舞いに神の働きを認めた人々は、イエスの力ある業を広めたのだろう。噂を聞いてひっきりなしに多くの病人たちが押し寄せて来たのだろう。 イエスはご自分の使命を貧しい病人たちの願いに応えることであると思ったのだ。それは、神・主(ヤーウェ)がエジプトでの奴隷状態に泣き叫んでいたヘブライの人々を、解放に導いたことを学んでいたからだ。イエスに続く教会の使命が重荷を負った人たち、疲れた人たちの荷を軽くすることをイエスから学びたい。 |
2018年2月11日(日) 年間第6主日 マルコによる福音書1章40節-45節
重い皮膚病の人の苦しみは如何ほどであったろうか。その病ゆえに、肉体の苦痛はもとより、「汚れた者」として共同体から隔離され、人の近づくのさえ許されない一切の交わりから断たれた孤独な生活を強いられた悲しみはどれほどだったか。そのような状況を与えた神を恨んでいただろう。 そこへ、「神の聖者」と言われ、多くの病人を癒したイエスが来るとの噂を聞いた彼は、イエスを試そうと禁を破ってまでもイエスのところへ来た、「汚れた者」と宗教的・社会的に公認されたこの自分をイエスはどう思っているのか、問いただしたかったのだ。「神の聖者」と言われているが、結局、イエスは世間一般に、この俺を「汚い」と呼び、追放する所詮ペテン師ではないのか。正体を暴いてやる、と。イエスはこの彼の命がけの挑戦にたじろいた。彼はイエスに尋ねた、「お前はおれ『清い者』と思うか。」イエスは社会を敵に回しても、重い皮膚病の人を救うにはこれしかないと「お前は清い」と叫んだのであった。イエスはどこまでも「小さき者」たちの側に立たれようとしたのだ。 |
2018年2月18日(日) 四旬節第1主日 マルコによる福音書1章12節-15節
イエスと宣教の旅をマルコ福音書によって始めたけれど、教会の典礼暦に従って、降り戻されることとなった。今日の箇所はマルコ福音書の序文にあたり、これから始まる物語を要約している。これまで、イエスのガリラヤでの活動を見てきたが、どれも、「神の国」の宣教として悪霊追放、病人いやしが主であった。それを、序文では、聖霊に導かれて荒れ野に入ったと表現されている。聖霊はイエスの受洗のとき「神の子」との任職の徴として与えられている。従って、イエスの受洗は自分の使命を自覚し、それに徹して生きることを表明しているのだ。そして、「荒れ野」は「神の支配」が実現する理想郷の場(例イザヤ11・6-9)、すなわち、イエスのように神の言葉に従い、生かされ生かし合うことによって互いの人権を回復し、各自の人生を幸いにするのだ。あらためて、自分の洗礼の意味を問い直そう。 |
2018年2月25日(日) 四旬節第2主日 マルコによる福音書9章2節-10節
イエスの周りには、寄る辺のないガリラヤの飢え、病む人々が絶えず押し寄せ、イエスは彼・彼女らを手当てし、パンを分け、彼・彼女らを立ち上がらせたと福音書は報告している。 イエスの宣教旅行について行った弟子たちは、イエスのその行動に、来るべきメシアを見出した。リーダ格のペテロは民衆の支持を得ているイエスにあやかろうとした。そこで、イエスを神格化し、神殿を立ち上げることをイエスに進言した。言わば、巡礼地にして富を手に入れようとしたのだ。つまり、ペテロたちは神の声に従うイエスではなく、この世的価値観に縛られて、イエスについて行こうとしたのだ。 他方、イエスはモーセやエリアのように、神の声に己を無にして従い、そして、この世から拒絶された生き方を選んだのであった。イエスは弟子たちに呼びかけた。神殿という聖なる場である山を下りて、苦難にあるガリラヤの人々と共に生きるようにと。 |
|