ももちゃんの一分間説教



今週の一句
餅つきの 掛け声高き 大晦日

―もとゐ―


 2018年1月1日(土)
 神の母聖マリア

 ルカによる福音書2章16節-21節

2,16 〔そのとき、羊飼いたちは〕そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2,17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2,18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2,19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2,20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
2,21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 羊飼いらは天使の告げたこと「あなたがたのために救い主が生まれた」が本当か確かめにベツレヘムに行った。マリアは天使ガブリエルのお告げが確かに実現したことを出産によって知った。このように、クリスマスの物語は、神の人への呼び掛けが、つまり、人間の生き方への指針に従うとき、幸いになる、と言う旧約以来の人間の在り方を画いている。新しい年の幕開けに、一人一人が大切にされるよう、あらためて、どう歩むべきか、神からの言葉を聴き、考え、識別し、進むことを決意したい。 
今週の一句
ミサ祝い 囲む孫たち 初雑煮

―もとゐ―


 2018年1月7日(日)
 主の公現

 マタイによる福音書2章1節-12節

2,1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2,2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2,3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2,4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2,5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2,6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2,7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2,8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2,9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2,10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2,11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2,12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 今日の、占星術の学者らの幼子キリストの来訪は、マタイ福音書最終章の世界宣教への派遣の先取りの物語だ。つまり、キリストは全世界の「主」になる、と。さて、ルカとマタイのクリスマス物語は、人間の本来の生き方を示している。人の生は神の呼び掛けに応えることだ。たとえ、理不尽なことに思えたとしても。

 ヨゼフは婚前まえに孕んだマリアを受け入れた。マリアは不幸な出来事を神の計画と受け入れた。羊飼いたちは、馬鹿げた天使のお告げを、躊躇いながらも受け入れた。占星術の学者たちは、この世の権力者ヘロデにではなく、命の危険にもかかわらず神の声に従った。イエスは最後まで神のみ旨を果たそうとされた。この世的には、認められない、不幸な生であるかもしれないが、神の声を聴き従う生に、幸いある、と言うのが聖書の信仰だ。
今週の一句
新たなる 年の夜道の スーパームーン

―もとゐ―


 2018年1月14日(日)
 年間第2主日

 ヨハネによる福音書1章35節-42節

1,35 〔そのとき、〕また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
1,36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。
1,37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。
1,38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、
1,39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
1,40 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。
1,41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
1,42 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

 占星術の学者らは、星に導かれベトレヘムの家畜小屋で母に抱かれているイエスと出会った。ヨゼフとマリア、羊飼いたちも、星、天使に導かれ飼い葉桶に眠るイエスと出会った。洗礼者ヨハネの二人の弟子はヨハネに教えられ、イエスについて行き、イエスのいる場所、即ち、ガリラヤの貧しい人たち、病人、遊女、徴税人らと関わるイエスと出会った。

 私たちも教会に導かれ、玉座、宮殿にいるイエスではなく、沖縄、福島、シリアで働いているイエスに出会いたい。  
今週の一句
朝シャン 捻りても出ぬ 寒の入り

―もとゐ―


 2018年1月21日(日)
 年間第3主日

 マルコによる福音書1章14節-20節

1,14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
1,15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
1,16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
1,17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
1,18 二人はすぐに網を捨てて従った。
1,19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
1,20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

 福音書を読むという行為は、イエスのエルサレムへの道のりを一緒に歩むこと、と言われている。さあ、その旅を始めましょう。1、14、15はイエスの道のりのエピローグ、序曲となっている。つまり、イエスの生涯を要約している。「時は満ちた。神の国は近づいた。回心して福音を信じよ。」イエスと出会った人たちは、その出会いとその衝撃をその言葉で表したのだ。イエス時代、ローマとユダヤ指導者からの圧政に苦しむユダヤの人々は神の介入を願い、新しい天と地の訪れ、終末を願った。神が善人と悪人を裁き、神の言葉を守った正しい人は祝福を得、守らず、背いた正しくない人は呪いを与えられると信じていた。ファリサイ派や律法学者たちは競って我こそは正しいと主張し合っていた。しかし、彼らは、重税と律法の重荷に圧し潰されていたガリラヤの民衆のことには無関心であった。

イエスは小さくされたガリラヤの民衆が眼中にあった。裸で飢えて、病み差別され、虫けらのように殺されて行く人たちに心を痛めていた。その彼・彼女たちに、イエスは叫んだ、「神様はもう既に来ている。さあ、目を上げて神さまのもとへ行こう。この世の支配者を捨てよう。神様はあなたたちの目を開き、足を歩けるようにし、重い皮膚病の人は清められるからだ」この神の招きを広めるため、弟子たちを集め、ガリラヤ中を回られたのだ。
今週の一句
雪の舞い 足取られて 人の舞い

―もとゐ―


 2018年1月28日(日)
 年間第4主日

 マルコによる福音書1章21節-28節

1,21 イエスは、安息日〔カファルナウムの〕会堂に入って教え始められた。
1,22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
1,23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
1,24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
1,25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
1,26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
1,27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
1,28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

 前回言ったように、福音書を読むことはイエスの旅について行くことであるから、ガリラヤにて安息日の会堂へイエスと一緒に入ろう。安息日は、創世記や出エジプト記に書かれているように、神の創造の働きを終えて、すべて良しと言って休めれたことから、奴隷たち、牛や馬も、一週間の労働をせめて一日だけでも休む日となっている。言わば、奴隷たちの人権回復のプログラムの日なのだ。会堂では神の言葉、即ち、人としてのあるべき生き方、社会のあるべき姿の方向指針を聴き学び、それに従って生活することを神と契約を交わすのであった。

 その安息日の会堂へイエスは入られた。そこには悪霊に取りつかれた人がいて、イエスを見ると、構わないでくれと叫び暴れたのだ。ガリラヤは古来から大国の争奪戦が続けられていたし、イエス当時はローマ帝国の圧政へのテロが繰り返されていた所だ。殺戮や暴力が日常茶飯事であり、恐怖と欠乏の真っただ中にいるゆえに、精神を病んだ人が数限りなくいたのだ。まさに、彼・彼女たちには安息も人権もなかったのだ。

 そんな彼彼女たちにイエスは「神の支配」を如何にして語られたのだろうか。私たちはシリアやパレスティナの難民たちに神があなたを大切にしていると語られる鵜であろうか。イエスは悪霊を叱って悪霊を追い出した、つまり、殺戮や暴力が止み、理解と和解、共生への歩みを始めなければならない。イエスの「黙れ、出て行け」の叱り声は私たちを叱咤している声ではないのか。


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