ももちゃんの一分間説教



今週の一句
冬の夜 浮かぶ大ツリー 大銀杏

―もとゐ―


 2017年12月3日(日)
 待降節第1主日

 マルコによる福音書13章33-37節

13,33 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
13,34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
13,35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
13,36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
13,37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

 待降節は、主の降誕と主の裁きである再臨を待ち望む季節だ。元々は、紀元前3世紀のシリア朝アンティコス王によるギリシヤ化政策によるユダヤ教弾圧下、排出した信仰ゆえに殉教した者への神からの義認、つまり、終末に復活と永遠の命が神から与えられると言う神学、黙示思想をキリスト教が取り入れたのだ。キリストは人間の救いを始めるために生まれたが、完成はキリストが裁きのために再び来られたとき実現する、とキリスト教は考えた。

 従って、今日の福音は信者に救いの完成がいつ来ても良いように、「目を覚まして」待ちなさい、と呼びかけている。教皇フランシスコは回勅「ラウダート・シ」でキリスト者に現在の生態学的危機、社会と人間の生命と人権の危機に「目を覚まして、立ち上がれ」と呼びかけている。神の言葉を指針として考え、想像し、判断しよう。 
今週の一句
大都会 裸木聳え 日暮れかな

―もとゐ―


 2017年12月17日(日)
 待降節第3主日

 ヨハネによる福音書1章6-8節、19節-28節

1,6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1,7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1,8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1,19 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、
1,20 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。
1,21 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。
1,22 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」
1,23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
1,24 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。
1,25 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、
1,26 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。
1,27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」
1,28 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

 「あなたはどなたですか。」洗礼者ヨハネはユダヤ教指導者から遣わされた人たちから尋ねられた。キリスト教では、イエスの先駆け、イエスへの道を準備する者とした。先週、私はバビロニア補囚末期に活躍した第二イザヤになぞらえた。絶望と暗闇にあった捕囚民に解放するメシア到来を予言して、「慰めよ、希望を持て」と奮い立たせようとした。しかし、そのメシアはユダヤ人が期待していたダビデ王の子孫からではなく、よりによって外国人のペルシャ王キュロスだと言うので、ユダヤ人たちは第二イザヤの言葉を受け入れず、迫害したのであった。

 では、なぜ、第二イザヤは、キュロス王を神の遣わしたメシアであると言ったのであろうか。それは、国際情勢を冷静に観察し分析したからであろう。衰退するバビロニア王国と破竹の勢いで各地を侵略征服するキュロス王にバビロニアの滅亡が寸前であることを見通ししたのであろう。洗礼者ヨハネもローマ帝国の圧政とユダヤ国指導者の退廃に絶望する民衆に希望をもたらす神の介入、メシアの到来を見出したのだろう。

 しかし、イザヤのキュロスへの期待は失望に変わり、「苦難の僕」と言うメシア像を打ち出した。「見るべき面影もなく、軽蔑され、見捨てられ、無視されていた。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53章)

 洗礼者ヨハネは「苦難の僕」キリストを紹介するため、ユダヤ教指導者から非難され、ヘロデ王から殺害されても、「罪のゆるしに至る悔い改めの洗礼」を授けるために荒野に出掛けたのであった。 
今週の一句
ジングルベル 書き入れ時の 店響く

―もとゐ―


 2017年12月24日(日)
 待降節第4主日

 ルカによる福音書1章26節-38節

1,26 〔そのとき、〕天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
1,27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
1,28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
1,29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
1,30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
1,31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
1,32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
1,33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
1,34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
1,35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
1,36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
1,37 神にできないことは何一つない。」
1,38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 ルカ福音書では、イエスは神から遣わされた人であるとする。(「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる」ためである。」ルカ4,18-19)所謂、神の救済史の中心的役割を担った人、「時の中心」と言われている。旧約のイスラエルの歴史と聖霊降臨後の教会の歴史の真ん中に立っている人と言う。

 それ故、その誕生も神の計画に従ったものになる。神は「卑しいはしため」の少女マリアをその母に選び、生まれてくる子に神の計画を担わせる、と言うのは前述の「貧しい人に福音を告げる」ことな他ならない。

 今日の福音は人の幸いは神の計画の役割を引き受けることにある、神から託される使命はどんな人にも与えられる、と語られる。 
今週の一句
今週の一句:訪ねれば 出迎えに立つ ツリーかな

―もとゐ―


 2017年12月25日(月)
 主の降誕(夜半)

 ルカによる福音書2章1節-14節

2,1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2,2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2,3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2,4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2,5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2,6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2,7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
2,8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2,9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2,10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2,11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2,12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2,13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2,14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

 「神はその独り子キリストをお与えになった程、わたしたちを大切にされた。キリストによって、わたしたちみなが人生に失望することなく、自分の夢を適えられるためです。」(ヨハネ3・16、参照)

 クリスマス、イエス・キリストの誕生は神さまからわたしたちへの「贈り物、ギフト」です。では、どのようなギフトでしょうか。ケーキやおもちゃ、でしょうか、トランプ大統領のような恫喝、分断し憎悪を増長させる言葉でしょうか。安倍さんの国難だと危機を煽り、国会を解散し、地上イージスなどの5兆円超える軍拡推進の言葉、また、汚染水はアンダーコントロールしている、との虚偽の言葉でしょうか。

 神さまからのギフトは、さあ、みなさん、飼い葉桶をのぞき込んでください。「赤ちゃん」です。トランプさんや安倍さんの勇ましい、見栄えのある派手な言葉ではありません。小さな、小さな、頼りない命です。でも、その小さな命を見つめたとき、わたしたちの心に何か熱いものがふつふつと沸いて来ないでしょうか。何としても大切にしなければ、守らなければ、育まなければの思いが。長旅で疲れ切った父ヨゼフや宿にも入れず、野宿で休まなければならない他の旅人たちにも、牛や羊の世話をしていた家畜小屋の番人の心にも生じたのではないでしょうか。

 飼い葉桶の赤ちゃんから、わたしたちはミサイルが飛んで来る前に、先制攻撃しよう、打ち落とそう。不法移民やテロを防ぐために壁をつくれ、制裁しろのこころではなく、人を理解し、分かち合い、助け合い、平和な世界、餓えのない世界、誰もの夢が適えられる世界になることを願うこころをギフト、贈られるのではないでしょうか。
今週の一句
街路灯 路上の年越し 見守りて

―もとゐ―


 2017年12月31日(日)
 聖家族

 ルカによる福音書2章22節-40節

2,22 モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親は〔イエス〕を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。
2,23 それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。
2,24 また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
2,25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。
2,26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。
2,27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。
2,28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
2,29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。
2,30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
2,31 これは万民のために整えてくださった救いで、
2,32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
2,33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。
2,34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
2,35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
2,36 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、
2,37 夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、
2,38 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
2,39 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。
2,40 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

 苦難に喘いでいた貧しい人たちは、その解放をもたらす神からのメシヤを待ち望み続けていた。ナザレのイエスとの出会いに人々は神からのメシヤを見出した。その喜びは想像を絶することであっただろう。それ故、貧しい人に福音を、目の見えない人に視力の回復を、捕らわれ人を解放。とイエスの働きを伝えたのだ。

 キリスト教会はそれを受け継ぎ、イエスをメシヤ、神の子と信じ、それによって、捕らわれ、死、つまり、「罪」のゆるしが与えられるとの教義を造った。そして、イエスは「神の子」だからその両親は正しい人、信仰篤い人、その家族は「聖」であるとの考えも造った。しかし、旧約聖書では「聖」とは、物を表現するのではなく、人との関係を表している。「自分を大切にするように隣人を大切にしなさい。」(レビ記19章参照)、他。

 つまり、「聖」家族とは、肉親・血縁関係ではなく互いを大切にし合う人間関係のこととなる。イエスは貧しい人たちと互いに大切にして生きたのだ。それを受け継ぐ、教会もそうでなければならない。それを目指そう。


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