ももちゃんの一分間説教



今週の一句
頬張れば 口に拡がる 里の秋

―もとゐ―


 2017年11月5日(日)
 年間第31主日

 マタイによる福音書23章1-12節

23,1 〔そのとき、〕イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
23,2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
23,3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
23,4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
23,5 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
23,6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、
23,7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
23,8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
23,9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
23,10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
23,11 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
23,12 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

 神の律法、ことばは本来人の命を生き生きとさえるもの。神と言う確かな真実を基に生きることによって、幸いとなるから。しかし、イエス時代、ユダヤ教の指導者たち、ファリサイ派や律法学者らは、人を「浄い者、善人」と「汚れた者、罪人」を分けるものとしてしまった。つまり、守れる人は正しく、守れない人は「罪人」と。そして、それは社会的宗教的差別を正当化することとなった。

 イエスは元来の律法の意味を取り戻そうとした。神は善人の上にも、悪人の上にも太陽を昇らせ、雨を降らせる、と。まさに、神をお大事ににし、隣人をお大事にすることに他ならないことを、実践されたのだ。
今週の一句
左舷の月 朧に浮かぶ 冬の夜

―もとゐ―


 2017年11月12日(日)
 年間第32主日

 マタイによる福音書25章1-13節

25,1 〔そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。〕「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
25,2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
25,3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
25,4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
25,5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
25,6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
25,7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
25,8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
25,9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
25,10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
25,11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。
25,12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
25,13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 生きていてよかった、と言える人生になるには、何を必要とするのか。聖書では、神のことばと言う。神のことばは、律法、掟とも言われ、生き方、社会のあり方の指針だ。人はこの神の言葉を守り、神はその人に幸いを与える、と言う契約を神との間に交わした。律法は613の律法があった。イエス時代のファリサイ派や律法学者たちはそれらに膨大な数の先祖からの言い伝えをも加え、下層の人々には守り切れない律法を押し付け、人を「浄い人」と「汚れた人」に裁く基準にしていた。つまり、契約が人に、特に下層の人々に幸いを齎すのではなく、守れない人には差別、搾取、不幸を与えるものとなってしまったのだ。

 だからイエスはそのようなファリサイ派的律法観を批判し、本来の意味に帰ること、即ち、「神と人をお大切にする」律法の第一の掟を守ることこそが人生を幸いにすると身を以て示された。イエスを模範にし、従うことが、人の幸いに必要だ、と言うのがキリスト者の選択だ。
今週の一句
キャンバスを 歩道に代える 落ち紅葉

―もとゐ―


 2017年11月19日(日)
 年間第33主日

 マタイによる福音書25章14-30節

25,14 〔そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。〕「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
25,15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、
25,16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
25,17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
25,18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
25,19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
25,20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
25,21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25,22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
25,23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25,24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
25,25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
25,26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
25,27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
25,28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
25,29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
25,30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

 福音書はイエスの呼び掛けに応えてついて行くことに、人生の幸いがある、と言う。

 イエスは、私たちをファリサイ派のような神の言葉、律法の遵守によって自己を評価し、他者を裁き、それによって自己を優越して得られる幸い、換言すれば、業績主義、現代的には働きの成果による利益第一主義の幸いではなく、成果を分配するところの互いに大切にして得られる幸いへと招く。

 今日のタラントのたとえ話をどのように考えればよいのか。ファリサイ派的生き方であれば、結局、勝者と敗者に分けられるから、それは、イエスの目指す人を大切にする幸いではない。イエスの招く「幸い」は何かを改めて問うているのではないか。
今週の一句
夜の街 光り零れり 師走かな

―もとゐ―


 2017年11月26日(日)
 王であるキリスト

 マタイによる福音書25章31-46節

25,31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25,32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25,33 羊を右に、山羊を左に置く。
25,34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25,35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25,36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25,37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25,38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25,39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25,40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
25,41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
25,42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
25,43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
25,44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25,45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
25,46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

 誰が天国に入り、地獄に落とされるのかは万人の問題だろう。

 ユダヤ人は律法を守ったかどうかをその基準とした。つまり、ユダヤ人は613あるという律法を厳格に守れば、神から良いと認められると考えていた。従って、譬えのように、「王」である神に主張するのであった。「あなたにお世話しなかったでしょうか」それに対し、神は彼らを「私に何もしてくれなかった」と、斥けた。他方、「あなたをお世話したでしょうか」と自分は神に何もしてないと言う人たちには「私にしてくれた」と認めた。これは、何を意味するのだろう。

 神は見えない方だ。その神を世話するとはあり得ないこと、だから、世話したとは虚偽になる。同じく、困窮の人への世話をした人たちはそれを前者のように宗教的義務として行ったのではない。むしろ、生活上の当たり前のこととして行ったにすぎないのだ。彼らに対し、神は困窮する人こそ私だと言って、後者を褒めたのだ。「救い」、つまり、神からの肯定は神からの思いがけないプレゼントだ。前者のように獲得するものではない。そして、「神をお大切にする」とは数多い律法を厳格に守ることではなく、「隣人をお大切にする」ことに他ならないのだ。イエスは律法より人の命を優先された。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(マルコ2,27)


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