ももちゃんの一分間説教



今週の一句
気が付けば 二百十日の 空青く

―もとゐ―


 2017年9月3日(日)
 年間第22主日

 マタイによる福音書16章21-27節

16,21 〔そのとき、〕イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
16,22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
16,23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
16,24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
16,25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
16,26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
16,27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。

 イエスのガリラヤでの活動は、飢えた人にパンを病める人には癒しを、重い皮膚病の人には友となることを通して、誰もが平等に尊重されることを目指していた。その運動は、現代でも同様だが、古代の王を頂点とする階級社会で、なおさら、歓迎されないことであった。何故なら、社会はそれらの人、少数派を犠牲にして、大多数の中間層、上層の利益を守って成り立っているから。例えば、国内の貧困者、障害者、滞日外国人への不当な扱い。従って、イエスについて行くことは、自分の利益を求めることではなく、不利益を受けている人が平等に扱われること、そのためには、社会からの無関心、排除を受けること、十字架を背負うこととなる。 
今週の一句
吾亦紅 茂る草にも 頬染めて

―もとゐ―


 2017年9月10日(日)
 年間第23主日

 マタイによる福音書18章15-20節

18,15 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
18,16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
18,17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18,18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
18,19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
18,20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 聖書における「罪」とは、神との契約を破ること、神の提示された生き方、在り方を約束したけれど、背き反した生き方をしたこと、例えば、隣人への愛を疎かにしたこと。しかも、それは、個人と言うより、ユダヤ人共同体としての約束であるから、同胞、兄弟への約束違反となるから、共同体からのゆるしが必要となる。従って、神のいるところとは、契約を交わした共同体の成員が契約に忠実である、即ち、その生き方をしているところに神はいる。神は「聖」であるから、あなたがたも「聖」になれ(レビ19章)の「聖」とは、神の言葉に忠実であることは、つまり、神はそこにいるのだ。
今週の一句
一人寝の 窓の外から 虫の声

―もとゐ―


 2017年9月17日(日)
 年間第24主日

 マタイによる福音書18章21-35節

18,21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
18,22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
18,23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。
18,24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。
18,25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた
18,26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。
18,27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
18,28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
18,29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。
18,30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
18,31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
18,32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
18,33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
18,34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
18,35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

 イエスに呼び集められた弟子たちは、イエスのように生きることを約束した。イエスは飢えた者、裸の者、病者、徴税人・遊女や外国人を受け入れ、彼らの人生が幸いになるよう尽くされた。彼・彼女らはユダヤ教ファリサイ派から律法を守らない「罪人」と呼ばれ、共同体から排除され、不平等な扱いを受けていた。

 イエスの弟子たちは、このイエスに倣うことを約束した、即ち、排除、差別された人々を受け入れ、平等に関わるよう生きることを。また、イエスはご自身を裏切り続ける弟子を幾たびもゆるし、立ち上がらせたのであるから、弟子仲間においてはなおさら、イエスのゆるしに倣うこととなる。
今週の一句
田園の線路 並んで見送る 彼岸花

―もとゐ―


 2017年9月24日(日)
 年間第25主日

 マタイによる福音書20章1-16節

20,1 〔そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。〕「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20,2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
20,3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20,4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20,5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20,6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20,7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20,8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20,9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20,10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20,11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20,12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20,13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20,14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20,15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20,16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 神は、イエスを通して相応しくない私たちに目を留められ、人生を共に歩もうと声を掛けられた。その優しさに気づかされたとき、他者をゆるせのイエスの招きに応えたいと思う。

 同じく、イエスの働きに相応しくない私を招いてくれたことに気づいたなら、一緒に働いた仲間とそれを喜ばなければならないのではないか。 


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