ももちゃんの一分間説教



今週の一句
連日の 酷暑払いに 鰻食い

―もとゐ―


 2017年8月6日(日)
 主の変容

 マタイによる福音書14章13-21節

17,1 [そのとき、]イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
17,2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
17,3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
17,4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
17,5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
17,6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
17,7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
17,8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
17,9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

 古代イスラエル人は人生の幸いを得るために、モーセが神ヤーウェからいただいた人生の指針、法、言葉に従って生きようとした。しかし、神に背き、御利益宗教の神、バアルに従い、幸いを得ることはできなかった。私たちキリスト者はイエスの生涯にヤーウエ神に従ったこと、そして、ガリラヤの困窮する人々に希望を持たせたことを見出した。このイエスに従うこと、倣うことこそ人生の幸いであると信じるのがキリスト者と呼ばれる。 
今週の一句
迷走の 嵐過ぎ去り 秋立ちぬ

―もとゐ―


 2017年8月13日(日)
 年間第19主日

 マタイによる福音書14章22-33節

14,22 〔人々がパンを食べて満腹した後、〕イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。
14,23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
14,24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。
14,25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
14,26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
14,27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
14,28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
14,29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
14,30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
14,31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
14,32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。
14,33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

 嵐の湖を歩いて渡るイエス、不信のペテロは沈んだ。イエスは湖をまるで乾いた地であるかのように歩いた。他方、ペテロには湖でしかなかった。出エジプト記のモーセに率いられたヘブライの民がエジプトから出るときの故事が思い出される。エジプト軍に追われたヘブライの民が、神に導かれ、海が分かれて乾いた所を歩いて渡り、追ってから救われたことを。ヘブライの民はエジプト王に従うこと、奴隷人であることを止め、ヤーウエ神に従う自立人になろうと決意をもって出エジプトを敢行した。この世的には荒れ狂う旅路、海でしかないけれど、神まらの確かな指示、言葉に従うなら、乾いた陸地、安全な旅と変わるのだ。ペテロの不信は曖昧な、神を試す信仰であったのだ。神は岩、固い土台、その上に人生の幸いのあることを今日の箇所から教えられる。
今週の一句
洗濯物 干すところなし 冷夏かな

―もとゐ―


 2017年8月20日(日)
 年間第20主日

 マタイによる福音書15章21-28節

15,21 〔そのとき、〕イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。
15,22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
15,23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」
15,24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
15,25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。
15,26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、
15,27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
15,28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

 子を失った母の悲しみは世界共通だ。現代では、戦争やテロで理由もなく子を殺された母の悲しみが充満している。私たちはその悲しみにどう向かえばよいのだろうか。イエスも当時のガリラヤ他の地域で戦争、病気、飢え、差別によって無数の子どもたちが殺されている現実に直面したことだろう。イエスは逡巡した。私は無力だと。しかし、イエスは逃げなかった。母の悲しみに寄り添っただろう。それしか、イエスには出来なかっただろう。
今週の一句
日照不足 水平に這った ゴーヤ実り

―もとゐ―


 2017年8月27日(日)
 年間第21主日

 マタイによる福音書16章13-20節

16,13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
16,14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
16,15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
16,16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
16,17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
16,18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
16,19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
16,20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

 神は岩、砦、城塞。旧約の詩人はそう詠って絶対的な信頼を持った。「わたしの救いと栄は神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。」(詩編62,7)何故なら、ヘブライ(最下層民)の人々は、この世の一切の権威の空しさ、儚さを、いやというほど体験してきたからだ。新しく共同体を造るにあたってそれらを超える絶対者である神の言葉への信頼に生きる道を選んだ。イエスもまた神の言葉を伝統に頼らず、自主的に考え、判断し、貧しい人々が幸いになるよう働かれた。神の道が正しいと最後まで歩き通した。ペテロにはその神の言葉、岩、砦に自分の人生を築くよう招かれたのだ。そして、その岩に人々もまた繋がることをペテロの使命にしたのだ。 


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