ももちゃんの一分間説教



今週の一句
クチナシや 渇いた街に 影薄し

―もとゐ―


 2017年7月2日(日)
 年間第13主日

 マタイによる福音書10章37-42節

10,37 〔そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〕わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
10,38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
10,39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
10,40 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。
10,41 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。
10,42 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

 イエスは神の呼びかけに応えたため、家族を残し出奔した。また、家族から「狂人」と取り押さえられかけた。そして、弟子の裏切り、逮捕、処刑された。イエスは誰からも強制されることなく、やること、すべきこと、夢の実現に自己決定された。『出エジプト記』の奴隷から自律人への困難な旅を思い起こさせる。そのイエスの旅に私たちも呼ばれている。 
今週の一句
七夕や 彼方へ届く 願いかな

―もとゐ―


 2017年7月9日(日)
 年間第14主日

 マタイによる福音書11章25-30節

11,25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
11,26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
11,27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
11,28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11,29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
11,30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 イエスは弟子たちを「神の国」宣教へと遣わした。と言うのは、神の御心を示されたから。即ち、病人が癒され、足の不自由な人は歩け、重い皮膚病を患った人は清められ、死人は甦る、ことが神のみこころであることを教えられたのだ。それは、弱肉強食の価値観に生きる知者や賢い者からは拒否され排斥されることであるけれど、神は人の生き方として呼びかけられるのだ。

 イエスは柔和で謙遜な者、つまり、質実剛健ではなく耐えがたい重荷に押し潰された者であるにもかかわらず、神の呼びかけに応えられたのだ。そのイエスに招かれた私たちは弱さに喘ぎながらついて行けるのだ。
今週の一句
気象台より 早い明け宣言 蝉の声

―もとゐ―


 2017年7月16日(日)
 年間第15主日

 マタイによる福音書13章1-23節

13,1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。
13,2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。
13,3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
13,4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
13,5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
13,6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
13,7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。
13,8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
13,9 耳のある者は聞きなさい。」
13,10 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。
13,11 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。
13,12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
13,13 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
13,14 イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。
13,15 この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
13,16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。
13,17 はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
13,18 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
13,19 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。
13,20 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、
13,21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。
13,22 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。
13,23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

 神様は私たちが永遠の命、つまり、毎日を生き生きと勇気をもって生きられるようにと忍耐強く導き続けられています。まるで、農夫が種を何度も何度も蒔き続けるようにです。イエス様はその種の一つです。イエス様によって私たちは初めて人間の本当の生き方を教えられました。「病人が癒され、重い皮膚病を患っている人は清められ、足の不自由な人は歩けるようになり、死人が生き返る」ように、私たちは不自由な人重荷を負っている人の友となり、仲間になることをイエス様は命を捨てるほど率先して行いました。イエス様の種は2000年後の今も何千、何万の人の人生を幸いなものとしました。私たちもイエス様の背中を見続けながら、苦しんでいる人、悲しんでいる人の友だちになりましょう。その姿をみなさんの子どもさんやお孫さんが見られて、あとをに続き、30倍50倍100倍の実をつけるでしょう。 
今週の一句
梅雨明けて 頭俯く 草花かな

―もとゐ―


 2017年7月23日(日)
 年間第16主日

 マタイによる福音書13章24-43節

13,24 〔そのとき、〕イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。
13,25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。
13,26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。
13,27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
13,28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
13,29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
13,30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
13,31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、
13,32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
13,33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
13,34 イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。
13,35 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
13,36 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
13,37 イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、
13,38 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。
13,39 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。
13,40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。
13,41 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、
13,42 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
13,43 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

 神の国は「良い麦に雑草が混じった畑」のようだ、との譬え。性急なしもべたちは雑草を早く抜け、と言うが主人は収穫までそのままにしておけ、と言う。確かに、主人の言うように人が雑草を抜くとき良い麦まで抜いてしまうことがある。

 良い麦と雑草の区別が難しいこともあるだろう。同様に、人、教会が神に代わって、良い人とそうでない人を分けて裁くことのないようにとの忠告と神は最後までを見届ける方であることを、この譬えを教えている。  
今週の一句
朝顔や 萎れて立ち 天へ昇る

―もとゐ―


 2017年7月30日(日)
 年間第17主日

 マタイによる福音書13章44-52節

13,44 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
13,45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
13,46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
13,47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。
13,48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。
13,49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、
13,50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
13,51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。
13,52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

 私たちキリスト者の宝、夢はなんでしょうか。イエスとの出会いから見つかりました。イエスが自分の人生とガリラヤの生きるに困難な人々の人生が良かったと思えるように、彼らと関わり生きたことです。この宝を何が何でも輝くようにするのがキリスト者です。

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