ももちゃんの一分間説教



今週の一句
路地裏の 色艶どきり 躑躅かな

―もとゐ―


 2017年5月7日(日)
 復活節第4主日

 ヨハネによる福音書10章1-10節

10,1 〔そのとき、イエスは言われた〕 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
10,2 門から入る者が羊飼いである。
10,3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
10,4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。
10,5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
10,6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
10,7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
10,8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
10,9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
10,10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

 ヨハネ福音書ではイエスを「良き羊飼い」と言う。何故か。イエス時代のユダヤ教指導者たちは「良き羊飼い」ではなかったのだろうか。ガリラヤの農民たちは下層階級として、エルサレムに住む大祭司、貴族、大金持ちから、重税と煩雑な律法に重荷を負わされ疲弊困憊にあった。飢え、病い、差別に苦しめられていたのだ。その苦難にある人々の荷を軽くすべくイエスは働かれた。人々が生き生きと希望を持って人生を生きられるようにされた。しかし、それを社会秩序乱すこととして指導者たちから殺害されたのだ。そのイエスを「良き羊飼い」と呼ぶ今日の箇所を黙想したい。
今週の一句
どんより空 めげずあざやか ラベンダーかな

―もとゐ―


 2017年5月14日(日)
 復活節第5主日

 ヨハネによる福音書14章1-12節

14,1 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
14,2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
14,3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
14,4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
14,5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
14,6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
14,7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
14,8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、
14,9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
14,10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
14,11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
14,12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」

 イエスを「道、真理、命」であると宣言し、従う、私たちは「虚言、脅し、萎縮」の言葉にはノーと言える。 
今週の一句
ハイウエイ 空へと伸びる 青葉道

―もとゐ―


 2017年5月21日(日)
 復活節第6主日

 ヨハネによる福音書14章15-21節

14,15 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14,16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14,17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
14,18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
14,19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
14,20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
14,21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

 ヨハネ福音書ではイエスの十字架刑死を栄光と呼び、父のもとへ上る、帰ることと解している。従って、イエスは地上にはいなくなり、弟子たちはその姿を見ることができない、と言う。では、不在のイエスにどのように従えば良いのか、となる。その不安に、イエスは聖霊を送り、聖霊に従うよう、弟子に教えている。聖霊は知識、知恵、識別、勇気の霊と言われるように、イエスの言葉を理解することだ。イエスの生き様を通して語られる言葉を自分の生き方の指針にし続けることが、生きたイエスに従うこととなる。
今週の一句
蜜柑香る 口の中残る ほろ苦さ

―もとゐ―


 2017年5月28日(日)
 主の昇天

 マタイによる福音書28章16-20節

28,16 〔そのとき、〕十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
28,17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28,18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28,19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28,20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 イエスの復活とは、「高挙」、つまり、イエスが神の右の座に着き、その権能を授けられたことを意味する。(フィリピ2・6-11)従って、イエスが神のもとに昇る故、「昇天」とも言う。

 さて、そのイエスはガリラヤ、苦難の人々と生きたからこそ神から全権を委ねられたのだ。ガリラヤに生きたイエスを人生の最高規範と信じる弟子たちは、古代イスラエル人がモーセを介して神の言葉を授かり荒野を旅したように、弟子たちはガリラヤに生きたイエスの言葉と行いの道を歩むことと、他者にもその価値を伝えることを使命とした。
 


戻る