ももちゃんの一分間説教



今週の一句
野を行けば 舞って出迎える 踊り子草

―もとゐ―


 2017年4月2日(日)
 四旬節第5主日

 ヨハネによる福音書11章1-45節

11,1 〔そのとき、〕ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。
11,2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
11,3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
11,4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
11,5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
11,6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
11,7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
11,8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。
11,9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。
11,10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」
11,11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
11,12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。
11,13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。
11,14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。
11,15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」
11,16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
11,17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
11,18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。
11,19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
11,20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
11,21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
11,22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
11,23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
11,24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
11,25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
11,26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
11,27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
11,28 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。
11,29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。
11,30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
11,31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。
11,32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
11,33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
11.34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
11,35 イエスは涙を流された。
11,36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
11,37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
11,38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
11,39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
11,40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
11,41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
11,42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
11,43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
11,44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
11,45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた

 イエスとの出会いを、「死者は甦る」と終末の喜びを先取るものとして受け取った人々がいた。貧困、飢え、病気で死に瀕した人々が立ち上がったことを福音書は伝えるから、そのことはわかる。しかし、イエスは死者を甦らせる神的パワーの持ち主なのであろうか。イエスを信じれば、人は死ななくても済むのだろうか。そんなことのあり得ないことは歴史が示す。

 では、ヨハネ福音書が言う「イエスを信じれば死んでも生きる」とはどういうことか。イエスの死をも恐れない生き様を言っているのではないだろうか。イエスの貧しい者との関わりは支配者からは歓迎されないことだと知りながら、イエスは止めなかったのだ。それどころか、イエスに続く者は後を絶たないのだ。「イエスを信じれば」を「イエスに従えば」ととりたい。  
今週の一句
青空へ 蒲公英織りなす 野辺の道

―もとゐ―


 2017年4月9日(日)
 受難の主日

 マタイによる福音書27章11-54節

27,11 [そのとき、]イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。
27,12 祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。
27,13 するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。
27,14 それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
27,15 ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。
27,16 そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。
27,17 ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」
27,18 人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
27,19 一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」
27,20 しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。
27,21 そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。
27,22  ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。 
27,23  ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。 
27,24 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」 
27,25  民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」 
27,26  そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。 
27,27  それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。 
27,28  そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、 
27,29  茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。 
27,30  また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。 
27,31  このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。 
27,32  兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。 
27,33  そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、 
27,34  苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。 
27,35  彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、 
27,36  そこに座って見張りをしていた。 
27,37  イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。 
27,38  折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。 
27,39  そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、 
27,40  言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 
27,41  同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。 
27,42  「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 
27,43  神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」 
27,44  一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。 
27,45  さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 
27,46  三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 
27,47  そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。 
27,48  そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 
27,49  ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。 
27,50  しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 
27,51  そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 
27,52  墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。 
27,53  そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。 
27,54  百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 

 キリスト教はイエスの呼びかけに応えること。イエスは「行って同じようにしなさい」と私たちを招く。しかし、この道は十字架への道。「十字架を背負って来なさい。」まず、今日からイエスの十字架への最後の道をたどって見よう。 
今週の一句
花盛り 訪人絶えず 過疎の村

―もとゐ―


 2017年4月16日(日)
 復活の主日 日中のミサ

 ヨハネによる福音書20章1-9節

20,1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20,2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
20,3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
20,4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
20,,5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
20,6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20,7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
20,8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
20,9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

 権力の理不尽な横暴により師を失い、希望の潰えた弟子たち、出口もなく恐怖のうち身を固くして縮こまっている彼らが、再び、立ち上がり、外へイエスは「救い主」と言い広めて行ったその背景には何があったのか。弟子たちは、それを「イエスは起き上らされた」、「イエスは復活した」と表現した。つまり、死んでいた弟子たちが、立ち上がったことを「イエスは復活した」のだ。 
今週の一句
新しき 制服目立ち 新中学生

―もとゐ―


 2017年4月23日(日)
 復活節第2主日

 ヨハネによる福音書20章19節-31節

20,19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20,20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20,21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20,22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20,23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
20,24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20,25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20,26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20,27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20,28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20,29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
20,30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
20,31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 「主は立ち上がらされた」、つまり、「復活」を絵画的に、死んだイエスがさも幽霊のように歩き回ったと勘違いしたトマスがいた。「見ないで、信じる者は幸い」とは、トマス的解釈ではなく、人々の歴史のうちに、イエスの姿を確かに見て行くことではないだろうか。
今週の一句
ドア開き 珍客舞い込み 春雀

―もとゐ―


 2017年4月30日(日)
 復活節第3主日

 ルカによる福音書24章13-35節

24,13 この日、〔すなわち週の初めの日、〕二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
24,14 この一切の出来事について話し合っていた。
24,15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
24,16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
24,17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
24,18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
24,19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
24,20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
24,21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
24,22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
24,23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24,24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
24,25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
24,26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
24,27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
24,28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
24,29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
24,30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
24,31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
24,32. 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
24,33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
24,34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
24,35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 今日の箇所は、ミサで何が起きているのかを示す。つまり、イエスとの出会い、生きているイエスとの交流が起きることを。日々の生活で、希望失い、挫折を味わっているとき、聖書からイエスと出会い、対話し、方向が示され、それに従って一歩踏みだすようにイエスは背中を押される、そのイエスとの交流を共にパンを食すと言う。 


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