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2017年2月5日(日) 年間第5主日 マタイによる福音書5章13節-16節
マタイはイエスの弟子が何であるかを示す。「幸い、心の貧しい人」と弟子を祝福し、イエスが悪魔の試みに対し、『神の口から出る一つ一つの言葉で生き』(マタイ4・4)られたように、神のみ言葉を最高権威として聴き従うよう招かれる。詩編ではそれを「打ち砕かれた霊」と呼び、次のように歌う。『神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません』(詩51、18)人が人間の有限さ、はかなさ、愚かさを自覚し、神の導きに生きることを神は何物にもまさる生贄だと言う。この神のことばに徹底的に生きることを「地の塩」、「世の光」とマタイは呼ぶ。 |
2017年2月12日(日) 年間第6主日 マタイによる福音書5章13節-37節
「天の国は近づいた」と弟子たちを集められたイエス、それは神が望まれる「誰もが生き生きと生きられる」ことに応える集団だ。応えるためには、各自が神との約束に生きること、つまり、神の提示される生き方の指針に従うこととなる。けれど、その指針を完全に守ったと自己主張(ファリサイ派や律法学者)は決してできないとイエスは言う。できることは、自己の「心の貧しい」に気づき、従う道を歩み続ける他ない。一人ひとりの生命の輝きのため悔い改めながら進む人にイエスは「幸い」を祈る。 |
2017年2月19日(日) 年間第7主日 マタイによる福音書5章38節-48節
「悪人に手向かうな、迫害する者、敵のために祈れ」イエスの弟子への呼び掛けには身が締まる。不可能と思いながら、そうありたいとも願う。心貧しき、打ち砕かれた私たちは、この崇高な呼び掛けにおろおろしながらついて行きたい。 |
2017年2月26日(日) 年間第8主日 マタイによる福音書6章24節-34節
日常的な暴力の下に生きるガリラヤの農民たちに、イエスは何とも牧歌的なことを言ったものだ。「何を食べ、飲み、着るのか思い煩うな」と。それこそ、彼らの日々の苦痛の種だ。しかし、イエスにとって本来、神はすべての人に食物を与えられているのだから、神の支配に生きるならば、人を公平に平等に生きられるよう、指導者がすべきなのだ、と言外に指摘しているのではないか。イエスの学んだ旧約聖書には、指導者へのやもめ、孤児、寄留者への配慮を常に呼びかけているから。(例、エレミヤ7、エゼキエル34) |
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