ももちゃんの一分間説教



今週の一句
ビール缶手に 帰り電車待つ 節分かな

―もとゐ―


 2017年2月5日(日)
 年間第5主日

 マタイによる福音書5章13節-16節

5,13 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
5,14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
5,15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
5,16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 

 マタイはイエスの弟子が何であるかを示す。「幸い、心の貧しい人」と弟子を祝福し、イエスが悪魔の試みに対し、『神の口から出る一つ一つの言葉で生き』(マタイ4・4)られたように、神のみ言葉を最高権威として聴き従うよう招かれる。詩編ではそれを「打ち砕かれた霊」と呼び、次のように歌う。『神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません』(詩51、18)人が人間の有限さ、はかなさ、愚かさを自覚し、神の導きに生きることを神は何物にもまさる生贄だと言う。この神のことばに徹底的に生きることを「地の塩」、「世の光」とマタイは呼ぶ。 
今週の一句
目に飛び込む 西陽眩しき 春立ちぬ

―もとゐ―


 2017年2月12日(日)
 年間第6主日

 マタイによる福音書5章13節-37節

5,17 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
5,18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
5,19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
5,20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
5,21  「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
5,22  しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。 
5,23  だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、 
5,24  その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。 
5,25  あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。 
5,26  はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」 
5,27  「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
5,28  しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 
5,29  もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。
5,30  もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
5,31  「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。 
5,32  しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」 
5,33  「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。 
5,34  しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。
5,35  地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。 
5,36  また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。 
5,37  あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」 

 「天の国は近づいた」と弟子たちを集められたイエス、それは神が望まれる「誰もが生き生きと生きられる」ことに応える集団だ。応えるためには、各自が神との約束に生きること、つまり、神の提示される生き方の指針に従うこととなる。けれど、その指針を完全に守ったと自己主張(ファリサイ派や律法学者)は決してできないとイエスは言う。できることは、自己の「心の貧しい」に気づき、従う道を歩み続ける他ない。一人ひとりの生命の輝きのため悔い改めながら進む人にイエスは「幸い」を祈る。
今週の一句
春一番 ニュース流れども 悪寒辛し

―もとゐ―


 2017年2月19日(日)
 年間第7主日

 マタイによる福音書5章38節-48節

5,38 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
5,39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
5,40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
5,41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
5,42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
5,43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
5,44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
5,45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
5,46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
5,47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
5,48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 「悪人に手向かうな、迫害する者、敵のために祈れ」イエスの弟子への呼び掛けには身が締まる。不可能と思いながら、そうありたいとも願う。心貧しき、打ち砕かれた私たちは、この崇高な呼び掛けにおろおろしながらついて行きたい。
今週の一句
梅の枝に 花芽膨らみ 時を待ち

―もとゐ―


 2017年2月26日(日)
 年間第8主日

 マタイによる福音書6章24節-34節

6,24 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
6,25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
6,26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
6,27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
6,28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
6,29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6,30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
6,31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
6,32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
6,33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
6,34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 日常的な暴力の下に生きるガリラヤの農民たちに、イエスは何とも牧歌的なことを言ったものだ。「何を食べ、飲み、着るのか思い煩うな」と。それこそ、彼らの日々の苦痛の種だ。しかし、イエスにとって本来、神はすべての人に食物を与えられているのだから、神の支配に生きるならば、人を公平に平等に生きられるよう、指導者がすべきなのだ、と言外に指摘しているのではないか。イエスの学んだ旧約聖書には、指導者へのやもめ、孤児、寄留者への配慮を常に呼びかけているから。(例、エレミヤ7、エゼキエル34) 


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