ももちゃんの一分間説教



今週の一句
陽だまりに 猫蹲り 冬至かな

―もとゐ―


 2017年1月1日(土)
 神の母聖マリア

 ルカによる福音書2章16節-21節

2,16 〔そのとき、羊飼いたちは〕そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2,17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2,18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2,19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2,20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
2,21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 旅先での出産、それは遊牧民や移住労働者などのヘブライと呼ばれた最下層の人々であったユダヤの先祖には日常茶飯事の出来事であっただろう。イエスの時代ではローマ帝国の圧政下、搾取されそのい流浪化した民衆にも同様であっただろう。その夢も希望もないような状況にあって、人々の喜びは子の誕生であっただろう。変わるであろう未来、命の継承が開かれたからだ。だから、貧しいながら人々は子どもを未来を変える人として懸命に育てるであろう。

 新しい年を迎えた私たちも人を育てて行こう。 
今週の一句
人待てば 手すり足踏み 寒の入り

―もとゐ―


 2017年1月8日(日)
 主の公現

 マタイによる福音書2章1節-12節

2,1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2,2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2,3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2,4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2,5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2,6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2,7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2,8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2,9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2,10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2,11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2,12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 マタイはイエスを世界の「王」だと言う。その東方の占星術の学者らの来訪物語りではこの世の「王」であるヘロデに対するアンチテーゼとしてイエスを「王」と呼ぶ。自己の権力維持のために権謀術数を弄す残虐者としての「王」ヘロデ、他方、貧しい人、病む人、排除された人々の友になり、十字架刑で殺されたイエス。「王」を価値観の象徴とするなら、どの王を選ぶか、つまり、どう生きるかが問われる。イエスを「王」と呼ぶキリスト者の生も問われる。
今週の一句
闇雲の かき分け出ずる 初満月

―もとゐ―


 2017年1月15日(日)
 年間第2主日

 ヨハネによる福音書1章29節-34節

1,29 〔そのとき、〕ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
1,30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
1,31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
1,32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
1,33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
1,34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 洗礼者ヨハネはイエスを「神の子」「神の子羊」と人々に紹介した。イエスはガリラヤのナザレ出身で、大工のせがれでしかない故に馬鹿にされていた。「ナザレからメシアが出るはずない」と。あるいは、「大酒飲みで大食漢」「徴税人や遊女の仲間」と非難されていた。そんなイエスを何故、メシアと洗礼者ヨハネは呼んだのか。「私を遣わされた方が教えて下さった」と福音書には書かれている。つまり、ヨハネは常識、周りの目を気にせず、誰かに頼らず、自分で考え判断したのであった。
今週の一句
雪の原 朝日昇りて 輝けり

―もとゐ―


 2017年1月22日(日)
 年間第3主日

 マタイによる福音書4章12節-23節

4,12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
4,13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
4,14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
4,15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、
4,16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
4,17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
4,18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
4,19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
4,20 二人はすぐに網を捨てて従った。
4,21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。
4,22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
4,23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

 イエスはガリラヤの虐げられた人々がその重荷から解放され、生き生きとした人生になるよう働きはじめ、仲間を集った。イエスの呼び掛けは、余裕のある人にではなく日常生活で手一杯の人に向けられる。乞食ラザロへの関心は大金持ちにではなく無一物のイエスが持ったように。 
今週の一句
仏の座 七草粥を 頂きぬ

―もとゐ―


 2017年1月29日(日)
 年間第4主日

 マタイによる福音書5章1節-12a節

5,1 〔そのとき、〕イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5,2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5,3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5,4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5,5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5,6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5,7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5,8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5,9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5,10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5,11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5,12a 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

 旧約聖書では、神に従う人を幸いと祝福する。(例、詩編1)神は貧しい人たちを顧みるよう人に呼びかける。イエスの周りには、飢え、病み、裸で、路上に暮らさざるを得ない人々が無数いた。ユダヤ教のファリサイ派や律法学者は神に忠実、即ち、神のことば、掟を熱心に守っていると豪語しながら、貧しい人々を顧みず、差別し、抑圧し、交わりから排除していた。イエスの目にはそんな彼らに神の祝福を祈れない、貧しさに置き去りにされている人々にこそ祈らなければならないと思われたのだ。そして、幸いになるよう貧しい人々と関わられた。 


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