|
2017年1月1日(土) 神の母聖マリア ルカによる福音書2章16節-21節
旅先での出産、それは遊牧民や移住労働者などのヘブライと呼ばれた最下層の人々であったユダヤの先祖には日常茶飯事の出来事であっただろう。イエスの時代ではローマ帝国の圧政下、搾取されそのい流浪化した民衆にも同様であっただろう。その夢も希望もないような状況にあって、人々の喜びは子の誕生であっただろう。変わるであろう未来、命の継承が開かれたからだ。だから、貧しいながら人々は子どもを未来を変える人として懸命に育てるであろう。 新しい年を迎えた私たちも人を育てて行こう。 |
2017年1月8日(日) 主の公現 マタイによる福音書2章1節-12節
マタイはイエスを世界の「王」だと言う。その東方の占星術の学者らの来訪物語りではこの世の「王」であるヘロデに対するアンチテーゼとしてイエスを「王」と呼ぶ。自己の権力維持のために権謀術数を弄す残虐者としての「王」ヘロデ、他方、貧しい人、病む人、排除された人々の友になり、十字架刑で殺されたイエス。「王」を価値観の象徴とするなら、どの王を選ぶか、つまり、どう生きるかが問われる。イエスを「王」と呼ぶキリスト者の生も問われる。 |
2017年1月15日(日) 年間第2主日 ヨハネによる福音書1章29節-34節
洗礼者ヨハネはイエスを「神の子」「神の子羊」と人々に紹介した。イエスはガリラヤのナザレ出身で、大工のせがれでしかない故に馬鹿にされていた。「ナザレからメシアが出るはずない」と。あるいは、「大酒飲みで大食漢」「徴税人や遊女の仲間」と非難されていた。そんなイエスを何故、メシアと洗礼者ヨハネは呼んだのか。「私を遣わされた方が教えて下さった」と福音書には書かれている。つまり、ヨハネは常識、周りの目を気にせず、誰かに頼らず、自分で考え判断したのであった。 |
2017年1月22日(日) 年間第3主日 マタイによる福音書4章12節-23節
イエスはガリラヤの虐げられた人々がその重荷から解放され、生き生きとした人生になるよう働きはじめ、仲間を集った。イエスの呼び掛けは、余裕のある人にではなく日常生活で手一杯の人に向けられる。乞食ラザロへの関心は大金持ちにではなく無一物のイエスが持ったように。 |
2017年1月29日(日) 年間第4主日 マタイによる福音書5章1節-12a節
旧約聖書では、神に従う人を幸いと祝福する。(例、詩編1)神は貧しい人たちを顧みるよう人に呼びかける。イエスの周りには、飢え、病み、裸で、路上に暮らさざるを得ない人々が無数いた。ユダヤ教のファリサイ派や律法学者は神に忠実、即ち、神のことば、掟を熱心に守っていると豪語しながら、貧しい人々を顧みず、差別し、抑圧し、交わりから排除していた。イエスの目にはそんな彼らに神の祝福を祈れない、貧しさに置き去りにされている人々にこそ祈らなければならないと思われたのだ。そして、幸いになるよう貧しい人々と関わられた。 |
|