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2016年12月4日(日) 待降節第2主日 マタイによる福音書3章1節-12節
洗礼者ヨハネは立ち上がった。エルサレムの政治・宗教指導者へ神との約束に立ち戻るよう叫んだ。彼らはローマ帝国との妥協を求めるばかりで、民衆は打ち捨てられていた。神が指導者らに求めるのは羊を豊かに養う羊飼いになること。彼らは羊を犠牲にして自分らを肥え太らせていたのだ。キリストの降誕、即ち、人々が平等に活き活きと生きられるために、ヨハネは叫ばずにはいられなかったのだ。 |
2016年12月11日(日) 待降節第3主日 マタイによる福音書11章2節-11節
イエスの時代、人々はローマの圧制から解放し、新しい世界を齎すメシア、神から遣わされた政治的メシアを待ち望んでいた人々がいた。彼らは洗礼者ヨハネやイエスにそれを期待したが、的はずれであった。 ヨハネには「悪霊に憑かれた者」と言い、イエスには「大食漢、大酒飲み」「徴税人と罪人の仲間」と呼び、拒否した。二人とも対ローマ戦争をするのではなく、ユダヤ教内部の人々の生き方を回心させようとしたのであった。実は、イエスはキリスト教会に回心を呼びかけているのだ。 |
2016年12月18日(日) 待降節第4主日 マタイによる福音書1章18節-24節
マタイはイエスを「罪から救う者」と紹介する。「罪」は神との約束違反を言う。神はすべての人が幸いを追求できるために、神の言葉に従うよう人と約束された。しかしながら、パレスチナの99%の人々は重税と煩雑な律法の重荷を負わされ、貧困、暴力、差別に疲弊し倒れていた。つまり、ユダヤの指導者たちは羊飼いとしての役割を果たせず、羊たちを流浪に迷わせていた、つまり、神との約束を守らなかったのだ。他方、イエスはそれらの「小さくされれた人々」の重荷を軽くしようとして関わられたのだ。即ち、神との約束に忠実であろうとされたのだ。このイエスに倣うことが「罪のゆるし」神との和解に至るのだ。その意味として、マタイはイエスを「罪から救う者」と呼ぶ。 |
2016年12月25日(日) 主の降誕(夜半) ルカによる福音書2章1節-14節
イエスの誕生は困難な生活を強いられる人々の希望の物語だ。 権力によって旅を強いられる若夫婦。宿るところもなく家畜小屋での出産。シリアを出た難民の上にも、原発事故や自然災害で住むところ、職、家族を奪われた人たちにも同様なことがあることだろう。外国から出稼ぎに来て、ブローカーや雇用主に騙されて、低賃金で長時間労働の羊飼いたち、今日の研修生との名ばかりの外国人労働者や原発での被ばく労働者たちに同じ枷が嵌められている。彼ら彼女らは権力者に人生をほんろうされてしまった。頼れるものはこの世界にはない。頼れるのはこの世界を超えた絶対者、即ち、主体性でしかない。彼らは、神の声、天使の声に聴くとは自分で考え、判断し行動することだ。でなければ、お上任せは何度も人生を翻弄されるだけとなる。生れ出た赤子はその象徴だ。彼・彼女たちは飼い葉おけの赤子を覗き込み、耳を傾けている。主体的に生きることは、他者を尊重することとなる。赤子の周りにいる人たちは共感しあい、手を取り合い、今の境遇から脱しようとする。家畜小屋は困難な人々の出会いと新たな旅立ちへの停留所なのだ。 |
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