ももちゃんの一分間説教



今週の一句
ハロウィンや カボチャ掘られる 和菓子かな

―もとゐ―


 2016年11月6日(日)
 年間第32主日

 ルカによる福音書20章27節-38節

20,27 〔そのとき、〕復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。
20,28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
20,29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。
20,30 次男
20,31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。
20,32 最後にその女も死にました。
20,33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
20,34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、
20,35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。
20,36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
20,37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
20,38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

 「復活」とは、紀元前2世紀のセレウコス朝シリア支配下、ヘレニズム化に抵抗したユダヤ教徒が多数殉教したことから生まれた思想だ。つまり、殉教者(義人)に対する神からの褒美として終末における審判の際に贈られると考えられた。言わば、殉教者への賛美、信仰上の望みであって、現象を示す言葉ではない。「天国」が希望の言葉でしかないことと同様だ。

 イエスの復活も、イエスに生の価値を求める人々の願望で、現象ではない。ある人々が日本国憲法の平和主義の軍備なき平和こそが価値ありと信じることと同じ。    
今週の一句
過疎の山 錦織りなし 人迎え

―もとゐ―


 2016年11月13日(日)
 年間第33主日

 ルカによる福音書21章5節-19節

21,5 〔そのとき、〕ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。
21,6 「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
21,7 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
21,8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。
21,9 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」
21,10 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。
21,11 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
21,12 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。
21,13 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。
21,14 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
21,15 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。
21,16 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。
21,17 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。
21,18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。
21,19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

 ヘロデのエルサレム神殿は完成に60余年かけた壮大華麗な建築物であった、と言う。神殿は神の名の置かれた場として、国家の繁栄と安泰を祈る中心であった。しかし、所詮、人工物にすぎなく、神ではない。従って、紀元70年、ローマによって滅亡し、ユダヤ人は追放された。ユダヤ人が信じていた神殿、「神」は彼らを守られなかったのだ。

 神はどこにおられるのか。イエスは言う、「あなたがたの間」と。       
今週の一句
足早の 小路に木魚 冬の暮れ

―もとゐ―


 2016年11月20日(日)
 王であるキリスト

 ルカによる福音書23章35節-43節

23,35 〔そのとき、議員たちはイエスを〕あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
23,36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
23,37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
23,38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
23,39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
23,40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23,41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
23,42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23,43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 福音書ではイエスの捕縛、裁判、十字架の処刑死に至る受難をイザヤ書の「苦難の僕」(イザヤ53章)として理解している。即ち、古代イスラエルの秀でた指導者のモーセ、エリヤ、エレミヤ、そして、洗礼者ヨハネらは民の神との和解のため、民の罪を背負って、苦難の生涯を送られた。イエスをその「苦難の僕」に連なる者であり、極みに命を捧げられた方と受け止めたのだ。そのイエスに倣い、従うのがキリスト者と呼ばれる。 
今週の一句
山の端に 朝陽出れば 草紅葉

―もとゐ―


 2016年11月27日(日)
 待降節第1主日

 マタイによる福音書24章37節-44節

24,37 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
24,38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
24,39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
24,40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
24,41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
24,42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
24,43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
24,44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

 教会はキリストの誕生、再臨を待ち望む時期として待降節を過ごす。現代は戦争、暴力が絶えない。空爆で無辜の民の多くの命が奪われている。格差で飢え、教育の受けられない子供が無数いる。政治家や指導者には期待できない。神の介入を願うしかない。「平和の君」キリストを待つだけなのか。あるいは、「キリスト」になるべく教会が立ち上がらなければならないのではないか。


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