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2016年11月6日(日) 年間第32主日 ルカによる福音書20章27節-38節
「復活」とは、紀元前2世紀のセレウコス朝シリア支配下、ヘレニズム化に抵抗したユダヤ教徒が多数殉教したことから生まれた思想だ。つまり、殉教者(義人)に対する神からの褒美として終末における審判の際に贈られると考えられた。言わば、殉教者への賛美、信仰上の望みであって、現象を示す言葉ではない。「天国」が希望の言葉でしかないことと同様だ。 イエスの復活も、イエスに生の価値を求める人々の願望で、現象ではない。ある人々が日本国憲法の平和主義の軍備なき平和こそが価値ありと信じることと同じ。 |
2016年11月13日(日) 年間第33主日 ルカによる福音書21章5節-19節
ヘロデのエルサレム神殿は完成に60余年かけた壮大華麗な建築物であった、と言う。神殿は神の名の置かれた場として、国家の繁栄と安泰を祈る中心であった。しかし、所詮、人工物にすぎなく、神ではない。従って、紀元70年、ローマによって滅亡し、ユダヤ人は追放された。ユダヤ人が信じていた神殿、「神」は彼らを守られなかったのだ。 神はどこにおられるのか。イエスは言う、「あなたがたの間」と。 |
2016年11月20日(日) 王であるキリスト ルカによる福音書23章35節-43節
福音書ではイエスの捕縛、裁判、十字架の処刑死に至る受難をイザヤ書の「苦難の僕」(イザヤ53章)として理解している。即ち、古代イスラエルの秀でた指導者のモーセ、エリヤ、エレミヤ、そして、洗礼者ヨハネらは民の神との和解のため、民の罪を背負って、苦難の生涯を送られた。イエスをその「苦難の僕」に連なる者であり、極みに命を捧げられた方と受け止めたのだ。そのイエスに倣い、従うのがキリスト者と呼ばれる。 |
2016年11月27日(日) 待降節第1主日 マタイによる福音書24章37節-44節
教会はキリストの誕生、再臨を待ち望む時期として待降節を過ごす。現代は戦争、暴力が絶えない。空爆で無辜の民の多くの命が奪われている。格差で飢え、教育の受けられない子供が無数いる。政治家や指導者には期待できない。神の介入を願うしかない。「平和の君」キリストを待つだけなのか。あるいは、「キリスト」になるべく教会が立ち上がらなければならないのではないか。 |
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